「一九八四年」 司さん
ジョージ・オーウェル(英)が1949年に書いた『一九八四年』という小説より、
彼女と話していると、正統の意味をまったく理解していなくても、正統と見える振舞いをすることがどれほど簡単かがよく分かるのだった。ある意味では、党の世界観の押し付けはそれを理解できない人々の場合にもっとも成功していると言えた。どれほど現実をないがしろにしようが、かれらにならそれを受け容れさせることができるのだ。かれらは自分たちがどれほどひどい理不尽なことを要求されているのかを十分に理解せず、また、現実に何が起こっているのかに気づくほど社会の出来事に強い関心を持ってもいないからだ。理解力を欠いていることによって、かれらは正気でいられる。かれらはただひたすらすべてを鵜呑みにするが、鵜呑みにされたものはかれらに害を及ぼさない。なぜなら鵜呑みにされたものは体内に有害なものを何も残さないからで、それは小麦の一粒が消化されないまま小鳥の身体を素通りするのと同じなのだ。
これは作者が想像した(作者からみて)近未来の話である。
街中いたる所、職場、自分の部屋の中にテレビスクリーンがあり、映像を流すと同時にこちらを監視している。
「憎悪タイム」ではある人物を聴衆全員で憎悪するように煽る。
聴衆は怒鳴ったり机を蹴ったりして周りと一体化する。
「一斉体操」の時間では、こちらの動きも筒抜けなので、手を抜いていると、「○○○番のミスターテラニシ、肘が伸びていません!」と叱責される。
主人公は日記をつけ始めるのだが、これも見つかっては大変。
こそこそとやるのだが、そもそもそういう行為を始めるのにどこかから勇気を引っ張ってこなくてはいけない。
不審な言動のある人はいつの間にか「蒸発」してしまう。
日常茶飯事なので、周りの誰かがいなくなっても誰も気にしない。
それどころか不審人物を密告することが正義となっている。
親兄弟でさえ、その対象であることに変わりはない。
そんな状況の中、主人公の39歳男はある日、若い(26歳)女性から「あなたのことが好きです」とつけ文をされる。
そして、人目とカメラと隠しマイクを避けながら数回の逢瀬を重ねるのだが・・・
あと、まったく関係ありませんが、姉が持ってきたあじさいを紹介します。
曇りなればあじさいはみな嬉しそう
///////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
おたよりありがとうございます。
オーウェルの予言から30年たって、いまや日本は確実にその世界に足を踏み入れている、どころか、首の辺りまで、どっぷり浸っているような気がします。
国立大学の入学式・卒業式に国旗掲揚・国歌斉唱など、アホウとしか思えません。
そして今日の党首討論の首相の答弁の酷さといったら!
いったいあの方は何を言いたいのでしょう。
あの人には、聴き手に対する敬意のカケラもない。
彼の言説にあるのは、相手を説得しようという意思ではなく、相手への侮蔑と冷笑、そして恫喝だけです。
・・・などという、体の芯から不快になるさまざまのことを忘れさせてくれる、なんと上品で美しいアジサイでしょう!
たぶん、私たちが持つべきなのは、美しいものの前でたたずむ時間、なのです。
すてぱん
----------------------------------------------------------------------------