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ふしぎな集会

 

 

 話合ひとはたとへ話合ひが附かなくても、所詮別れられぬと諦めた親子や夫婦の間で行はれるものであつて、良かれ悪しかれ、永遠の未解決に堪える為の方法である以上、これを複雑な人間関係を処理する都政や国政に利用するのは不可解でもあり、民主主義の原則にも背くことになる。親子や夫婦の間で、話し合つたところで解決は出来ないと知りながら、それで諦めてゐられるのは、解決不可能の責任は相互にあるといふ信頼感が根底にあるからである。(中略)。民主主義とは話合ひによつては片の附かぬ対立を処理する方法の一つなのである。

 

    ― 福田恒存 「偽善と感傷の國」 ―

 

 

 

 昨夜子どもたちが帰った後、NHKのニュースをつけたら、神奈川県で東北地方の瓦礫を受け入れるかどうかの「話し合い集会」の様子を報じていた。
 放射能の測定をして何々ベクレル以下のものしか受け入れないと知事は言うのだが、そんなものは信用できないと参加した住民たちは言っている。
 「どいや、あんたら。《日本は一つ!》やなかったんか」
と茶々の一つもいれたくなるが、、まあ子どもがいれば心配にもなるだろうと、子供との「絆」を大事にする住民の話もわからぬではない。
 
 それはさておき、このような「話し合い集会」は、すべて不調に終わるだろう。
 (唯一不調に終わらないのは例の「やらせ」原発集会のようなものだけであろう)
 なぜ、そうなるかと言えば、それは今日引用した福田恒存の言葉にそのすべてが語られている。
 もう一度書いておけば

 話合ひとはたとへ話合ひが附かなくても、所詮別れられぬと諦めた親子や夫婦の間で行はれるものであつて、良かれ悪しかれ、永遠の未解決に堪える為の方法である

からである。

 ニュースはその後、相撲協会の新理事長に北の湖親方が満場一致で選ばれた、と告げた。
 なぜ相撲協会では満場一致になるかということも、上の言葉を読めば納得がいく。
 彼らは皆、相撲協会という運命共同体の一員であることを深く自覚しているからである。
 「話合ひ」とはこのような人々に持たれる会合を指すのである。

 われらが《喫茶・狼騎》が所属する《金沢せせらぎ商店街》の人々は必ずや月例の「話合ひ」を持つであろう。
 それによって、たぶん何事も一挙には解決はしない。
 一挙には解決はしないが、彼らは話し合わなければならない。
 そうするのは、彼らが同じ場所でこれからも共に商売を続けなければならないからである。
 その自覚があるから、彼らは話し合うのである。
 それは宮本常一が『忘れられた日本人』の中で書いているかつての対馬の長老たちの話し合いと同じである。

 民主主義とは「話合ひ」のことだと多くの人は誤認している。
 神奈川県知事の黒岩という人もまた同じらしい。 
 だからこのような集会を開いたのだろう。
 けれども、民主主義とは「話合ひ」がつかぬところから始まった制度である。
 そのことの自覚がなければ民主主義は機能しないだろう。

 「話合ひ」の目指すものは、原則として全会一致である。
 共同体にとって「話合ひ」とは、その成員一人一人がすこしずつ我慢をすることとなっても、自分たちの共同体を維持することに同意するためのものだから、時間をかけても全会一致を目指すためのものである。
 「ま、ま、ま、ま、堅いことはおっしゃらずに、お一つどうぞ」
などと、「話合ひ」の最後に酒や料理がが出て来るのもそのためである。
 一方民主主義とは、全会一致をあきらめた者同士が作りだした制度である。
 つまり異なる利害をもつ異なる地盤に立つ者同士が物事を解決するために作りだした制度である。
 その議決は多数決による。
 それは異なる利害を持つ者同士が、実際に肉体的な闘いをしないで共存するための智恵ではあるが、その本質は「話合ひ」ではなく交渉である。

 さて、民主主義の旗頭をもって任じるアメリカが常に《規制緩和》をもってその主張の第一とするのは、アメリカという国が「よそ者同士」の国だからである。
 よそ者同士がアメリカという国を造ったからである。
 彼らが言う「正義」とは「よそ者同士」が集まった場所における「正義」である。
 皆がよそ者同士であることを「公正」とみなす彼らは、顔見知り同士の内輪の「話合ひ」を不正なものとみなす。
 そしてそのような「話合ひ」の排除を求めることを《規制緩和》というのである。

 どこの国でも昔は「郷にいれば郷に従え」ということわざがあった。
 Do in Rome as Romans do. 
 ヨーロッパの人々もこう言ったものだ。
 私だって高校時代はこれを暗記した。
 だが、アメリカ人はそうは言わない。
 彼らは「世界標準」を言う。
 そして「ローカルの正義」を「不正」と呼んではばからない。
 なぜなら、そのような「ローカルの正義」とは「〈よそ者〉を受け入れない正義」だからだ。
 そんな彼らにとっては「話合ひ」こそが不正の温床に見える。
 彼らが求めるのは交渉であって「話合ひ」ではない。
 交渉は「話合ひ」とちがって、その後ろに力を持つものが有利である。
 だから、彼らはいまだに銃を手放さない。
 映画の中でも実際にも、彼らがバンバン鉄砲をぶっ放して平気なのは、国としてのアメリカが巨大な軍事力を手放さないことと根は同じだ。  

 《金沢せせらぎ商店街》はゴミ置き場をどこにするかを話し合うだろう。
 それは商店街のうちの誰かが受け入れなければならないもので、ほかに持って行きようがないからだ。
 そのことがわかっているから、一年ごとの持ち回りでも彼らは「話合ひ」でどこかにゴミ置き場を決めるだろう。
 一方東北の瓦礫の処理について神奈川県の「話合い集会」は不調に終わった。
 なぜそうなるのか?
 理由は、別に書かなくてももうわかっている。

 今、日本では大阪の橋下市長が「話合ひ」を拒んで人気である。
 たぶん、それは「民主主義」としては正しいのである。
 「話合ひ」の果てに独裁は出てこないが、僭主があまた出現した古代ギリシアからナチスの登場を許したワイマール体制まで、民主主義のすぐ横にはいつだって独裁政治が立っていたのは、そもそも民主主義というものが「話合ひ」からもっとも遠い制度だからである。
 「55年体制」と言われ、国会で「国対政治」がおこなわれていた頃、日本はまだまだ「話合ひ」国家だったのである。
 小選挙区制がそれを変えたのだ。
 あるいは「話合ひ」に飽きた人々が小選挙区制を選択したのだ。
 日本はそういう国になったのだ。
 そうやって《金沢せせらぎ商店街》の人々もやがて「忘れられた日本人」と呼ばれる日が来るのであろう。 
 


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