ふゆ
ふゆは殖ゆで、分裂すること、分かれること、枝が出ることなどといふ意味が古典に用ゐられてゐる。
― 大澤真幸 『〈自由〉の条件』 ―
さっき今年最後の「パトロール」から帰って来たヤギコは私の足下に寝そべっている。
日はすっかり暮れた。
今年も静かな大晦日だ。
一年が終わろうとしている。
今日引用した「ふゆ」が「殖ゆ」だという説は、大澤がその著書に引いていた折口信夫のものだ。
そのもとにあたる文章を私は読んではいないし、本当にこの「ふゆ」が〈冬〉という語の背後にあるものなのかどうかはわからない。
けれども、冬という季節が、古代の人々にとってその表面的な枯渇の時としてではなく、むしろその内部のあらたな実りや生長への転換を画す時としてとらえられていたという折口の説に私は共感する。
太陽暦が冬至から十日ほど過ぎたときに年の始まりを置いたのはなぜだろう。
それは、日に日に力を衰えさせていた太陽が、その極を過ぎ、たしかにまたすこしづつ力を取り戻しつつあることを人びとが実感するときだ。
それを人びとは年の始めとした。
大澤によれば折口は冬の祭りを
歳、窮つた時期に、神がやつて来て、今年出来たものを受けて、報告を聞き、家の主人の齢を祝福し、健康の寿ぎをする所の、祭り
と規定しているという。
さて、私たちはいまこの大晦日の夜、この一年の収穫として何を神に奉るのだろう。
そして来年の収穫をもたらすものが今年とれた種籾だとすれば、私たちははたしてそれを手にしているだろうか。
何一つ形あるものを私は手にしなかったように思う。
けれどもそれはまだしかとした形を持たぬままの何かが私の手にあることは感じている。
私は種籾の小さな一粒の中に秋の豊かな実りが詰まっていることを知っている。
そしてその実りのためには、土を起こし、水を張り、草を刈らねばならぬことも。
冬とは「殖ゆ」の季節なのだという。
命あるものたちが新たに生長し、やがて実るための新しい時間の始まりの時なのだという。
現代の人びともまた心のどこかでそのことをみな感じるからこそ初詣に行くのだと思う。
よい年でありますように、と願う人々の思いはいつも以上に真剣だろう。
2011年は大変な年だった。
けれども、そんな年もまた、私たちの来たるべき年を豊かにしてくれる何かをもたらしてくれたのだと思いたい。
そんな年であったと2011年を振り返れるような来年にしたいと思う。
では、みなさん、よいお年を!
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