〈並列〉の思考
同一条件のもとで同一の素材を使って結果を出さなければならない場合、そのひとがどんな行動をとるかは、豆電球の実験で判別可能なんだよ、と枕木さんは言う。(中略)べつにむずかしいことじゃないんだよ、理科の授業でやるあの豆電球の実験ね、ほら、電池をふたつ使って回路をつくるやつがあるでしょう、より強く、より明るい光を出すためにはどうつないだらいいかっていうあれですよ、(中略)。
で、ほら、先生が並列と直列の二種類で、電球の明るさを確認させるでしょう?まず並列つなぎにして、それから直列にする。ぱあっと電球が明るくなる。その瞬間、生徒たちから賛嘆の声があがり、先生は自分の発明でもないのに得意げな顔をする。そこまでは、いいですね?(中略)。でも、ぼくには納得がいかなかったんです、僕がびっくりしたのは、並列つなぎのほうだったんですよ、足し算が足し算にならない、そんな不思議なことが起こるのかって。ところが並列つなぎに魅せられたのは、クラスでぼくひとりだった。それが不可解でね。考えてみれば、明るくなるほうがやっぱり見栄えもいいし、わかりやすいし、まあ華やかなんです。並列はすなわち現状維持ってやつですよ。直列の夢に毒されて容量を度外視し、やみくもに足し算をつづければコイルが焼き切れる。それなら電池を節約しながら現状を維持したほうがいいのではないかと思うんです。
― 堀江敏幸 『河岸忘日抄』 ―
今日も曇り日。
終日ヤギコは私の足もとで眠っている。
夜になって彼女は「パトロール」に出かけたが、私は今日外に出ない。
堀江敏幸の本を読んでいた。
彼の小説のなかでは大きな事件は何も起きない。
何も声高に語られない。
たぶん中学生も高校生も退屈するだろう。
けれどもそれが文学であることは読めばわかる。
先月から読み始めた新潮文庫になっている6冊の小説のどれもよかった。
今読んでいる『河岸忘日抄』で最後になる。
冒頭の引用のすこしあとの部分を引いてみる。
並列でよいと得心するためには、光量が変わらないという真実を肝に銘じておく必要がある。現状維持の怖さは、その真実をまがいものの真実と取り違えて、一切を台なしにしかねない点だ。ほんとうのことを見切る力がなければ、結果的に直列と同じ愚を犯すことになる。枕木さんの話を聞いて以来、並列つなぎは彼にとって完璧さのありようの一例になった。(中略)
いまの世の流れは、つねに直列である。むかしは知らず、彼が物心ついてからこのかた、世の中はずっと直列を支持する者たちの集まりだったとさえ思う。世間は並列の夢を許さない。足したつもりなのに、実は横並びになっただけで力は変わらず温存される前向きの弥縫策を認めようとしない。流れに抗するには、一と一の和が一になる領域でじっとしているほかはないのだ。
2011年はとてつもなくたいへんな年だった。
けれども、そのことによって、2011年が直列つなぎから並列つなぎに変わる境目の年となればいいのにと思いながら読んだ。
なぜなら、今年起きた原発事故にしろ、ギリシアの破綻にしろ、それらは、より明るくより華やかにと、これまで何年何十年にもわたって、次々と電池を直列つなぎにしてきたことによって、私たちの電球のコイルが焼き切れたということなのだから。
私たちは容量をどこかで度外視してきたのだ。
そのことを思わねばならない。
そういえば、私たちの家庭の配線もやはり並列回路になっているのだった。
そうでなければ、一定の電圧が供給されなくなるからだ。
それに、もし、直列につながれていれば、一つのスイッチを切ればすべての回路に電流が流れなくなる。
そのように考えれば、東北の地震やタイの洪水で多くの企業の部品調達に支障をきたしたこともまた、現代の企業が直列回路の思考をしてきたことの証左のように思われる。
たった一本の回路で効率よく仕事をしようとして来たのだ。
それが破綻したのだ。
直列の思考から並列の思考へ。
たぶん世界はそうでなければこの先生き残れないだろう。
けれども、並列の思考とは、《すべてを並列に》、ということではないだろう。
それはまちがいなく〈並列〉の思考に反する考え方であるはずだ。
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