あるき指南
いよいよそのときには、どなたか生きながらえたら、ちゃんとわかる、
人間歩くにはかならず足を使わなければならなくなる。
- シェイクスピア 『リア王』 (三神勲 訳) ―
今日の午前中はなかなか寒かった。
近くに山でもあれば「〇〇おろし」とでも言いたいような冷たい風が吹いてたが、あいにくここからはそんな山は見えない。
いい天気だから、今日は真っ青な空の向うに富士山が見えるが、あれではあんまり遠い。
もちろんそのてっぺんはすっかり白い。
白いが、そこから冷たい風が吹いているわけでは、もちろんない。
越後山脈を越えた北風がそのまま関東平野を南下してここまで来ているらしい。
なにしろ千葉県は一番高い山でさえ、標高500メートルもないのだ。
それだって房総半島のずっと南の方にある。
要は全体が真っ平らな台地の県なのだ。
とは言え、晴れているし、と、古墳公園に行ったら、いつもわたしが座るベンチにいくつものリュックが置いてあって、向うのほうに年寄りが十人ばかり集まっている。
見れば、みな両手にスキーのストックみたいのを持っている。
中のおばさんがなにやら指導しているので年寄り連中のスキーの講習だろうかと思っていたら、そうではなかった。
やがて彼らは両手にストックを持って公園の周回道路を列を作って歩き始めたのだ。
指導者らしいおばさんが
〇〇さん、背筋を伸ばしてぇ
なんてことをやさしく言っている。
横を通る時見たら、彼らが持っているストックの先はとがっていなくて、ゴムが付いている。
どうやらスキーのためではなく歩くためのストックらしい。
妙なものがはやるものだ。
落語に「あくび指南」というのがある。
あくびのやり方を教えるという話だが、もちろん昔の人は皆、そんなばかばかしいことは落語の中でしかないと思って笑ったのだ。
わたしが目にしたのは「あるき指南」とでもいうべきものらしいが、みなまっすぐ前を見てまじめな顔をして歩いている。
まるでばかばかしくないらしい。
ふしぎなことだ。
歩くぐらい教わらなくたって誰だってできること、あくびと変わらない。
それなのに、人に習って両手に杖を持って、せっせと歩いている。
阿呆、ではあるまいか。
そのうちみんなあんなことをやり始めるのだろうか。
あんなのが普通になれば、スフィンクスだって謎は出せないし、オイディプスの悲劇だってなくなってしまう!
そんな人たちがぐるぐるぐるぐる公園を回っているのを横目にたばこを一服して公園から下りてきたら、木の階段の横の日向に小さな黒猫がいた。
なかなかいいなあ、としゃがんで眺めていたら、なんとそのおじさんおばさん連中も階段を下りてきた。
それも、あのおばさんの指導はすばらしかったんだろうか、みんな
ドシドシ
と大きな音を立てて下りて来るのだ。
せっかくわたしと友好的になりつつあった猫はすっかりおびえて身を伏せてかたまってしまっている。
そして、最後の一人が階段を下り終わると、脱兎のごとく藪の中へと走り込んだのだった。
うーん、何がうれしくて彼らは歩いているんだろう?
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