牛
また別所あり。なをば屎糞所(しふんじょ)といふ。
(また別の地獄がある。名前は屎糞所という。)
― 『地獄草子』 (『日本の絵巻 7』 編集・解説 小松茂美)―
今朝の毎日新聞の一面に牛の写真が載っていた。
自らの糞尿に膝まで埋まった牛たちだ。
有機肥料として近隣の野菜農家に引き取られていた牛の排泄物の引き取り先がなくなって、牛舎にたまった糞尿の持って行き場がないのだという。
写真に写った牛の大きなやさしい悲しげな目を見ていると朝からせつなくなる。
彼らに何の罪とてないのに、これは「地獄」ではないか。
しかし、自ら出した排泄物に埋もれ苦しんでいるのはその牛たちだけなのだろうか?
現代という時代を生きているわたしたち人間自身が実はあの牛たちと同じようなことになっているのではないだろうか。
だが、まだそのことに気づいていない人たちもたくさんいるのだ。
鎌倉時代に作られたさまざまな地獄を描いた「地獄草子」という絵巻には《屎糞所》という地獄も載っている。
そこには金色に輝く糞尿の中に首まで浸かり、針を持つ大きな蛆虫に刺されている男女が描かれている。
そこは
むかしこの世において三宝を敬わず、心愚かなため、汚いものを清いと思い、汚からぬものを汚いと思うものが(中略)落ちる
地獄なのだという。
現代の資本主義は不要のものを消費する(消費させる)ことによってのみ成り立っている世界だ。
そうでなければ「成長」などないからだ。
だが、それは多くの「ゴミ」を生み出す。
「ゴミ」とは資本主義が生みだす「排泄物」だ。
そして今やわたしたちは原発という〈どこにも持って行きようのない排泄物〉まで生み出すものを「必要だ」と思い込む世界を作ってしまっていたのだ。
たぶんそれはわたしたちがいつか「経済成長」などという言葉に慣れて、《汚いものを清いと思い、汚からぬものを汚いと思う》ようになっていたからではないだろうか。
首まで屎糞にまみれてしまったら、それはもう手遅れだろう。
だが、まだ膝までなら、わたしたちも自力でそこを抜け出せるのではないか。
今、それが膝のあたりまでなのか、それとももう首のところまで来ているのかわたしにはわからない。
けれど、まだ膝のところなのだと信じたい。
単に原発の問題だけではなく、わたしたちの生き方そのものの中の狂いをちゃんと見つめていかなければならないのだと思う。
もう一度言うが、『地獄草子』の《屎糞所》の屎糞は「金色」に描かれている。
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