洪水
邑は人民の聚落であり、人民は農業を主としていたから、邑の周囲には必ず耕地を必要とし、これを田と称する。田は耕作のためには肥沃な平地を有利とするが、かような平地は時に水害の虞れがあるので、邑は小高い丘を選んで立てられた。黄河下流の沖積層地帯では、邑の名に丘の字のつくものが多い。
- 「中国古代は封建制か都市国家か」 宮崎市定 ―
ニュースでタイの洪水の様子を見ていると、なんだか奇妙な気がする。
同じ洪水といっても、日本のそれとは違って、じわじわ、じわじわ水位があがってくるらしい。
というか、昨日と今日の水位が目に見えて変わるなんてこともなく、気が付けば、ちょっと上がったね、って感じである。
減るのもたぶんそうなのだろう。
もちろんそこにいる人たちが大変なのはわかるが、こちらからは、その水を眺めている人びとの様子はなにやら悠長に見える。
なにしろ、じわじわ、である。
日本の洪水が「一日単位」、あるいは「時間単位」であるのに、タイのそれはどうやら「月単位」であるらしい。
だから日本のようにあわてて緊急避難、なんてことにはならない。
みんな、街をひたす水を
なんとなく眺めている
といった趣きである。
しかも、その対策として、水の流れを速くしようというので、川に船を並べ、スクリューを川下に向け一斉に回すなんぞ、その悠長さに、素人目にも
そんなのダメだろ
と思ってしまうが、案の定ダメだったらしい。
もっとも、あの科学の先端を行くような原子力発電所を冷却する対策が
水をかける
という「原始力」的方法しかなかったことを思えば笑ってもいられないが。
その気候風土がそこに住む人たちの気風やものの考え方に大きな影響を与えることを考えると、東南アジアの人たちと日本人の間にはものすごい違いがあるのだろうなあ、ということ、今回の洪水でよーくわかる。
大河、というものはすごいものだ。
中学生の頃習った
《エジプトはナイルの賜物》
なんて言葉も、その洪水というのは、きっとこんな感じで月単位のものなだな、とはじめてわかる。
でも、こういうのは頭ではわかっても、その本質的なところで、せっかちな日本人にはわからない感覚のような気がするなあ。
工場が水に浸かって大変、とか言っているのに不謹慎だが、そんなこと考えた。
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