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知っていること

 

  

 自分が知らないこと、あるいは適切には知っていないことについて書くのでなければ、いったいどのようにして書けばよいのだろうか。まさに知らないことにおいてこそ、かならずや言うべきことがあると思える。

 

      ― ジル・ドゥルーズ 『差異と反復』 (財津理 訳) ―

 

 そんなバカな!
と思うかもしれない。
 すくなくとも昨日のマルクスとは全く逆のことをドゥルーズは言っている。
 もちろん、片や「労働」について、片や「書くこと」についてだが。

 多くの人は、書くというのは自分が「知っていること」を書くのだと思っている。
 あるいはそのことを「知っている」から書けるのだと。
 そうではないのだ、と、ドゥルーズは言っているのだ。

 この言葉に
  なんちう、ヘンなことを言うおっさんだろう
と思う人はたぶん小学校の作文以上のものを一度も「書いた」ことがない人なのだ。
 弁論大会用の原稿を書くことが「よい文章」を書くことだと思い込んでいる人なのだ。
 そこでは結論が先にあって、それに合わせてものを考える。
 だが、それは、考える、とは言わない。

 たとえば、それは、実験、と言えば中学校の理科室での「実験」しか思い浮かばない人なのだ。
 そこではすでに「結論」が教科書に書かれている。
 簡単な操作さえ間違えなければ、ほとんど誰でも同じ結果が出る。
 もし、違った結果が出れば、
       それはわたしたちがまちがっていたのだ。
    ミスをしたのだ。
 そう考えて、「定説」の方にわたしたちの「実験」の結果のつじつまを合わせ、それを記憶する。
 だが、世の先端で行われている本当に意味ある実験とは結論がわからずに行う実験のことだ。
 100も200も仮説を立て、そのどれもが裏切られ、そのあげくにたどり着く砂金探しのような行為のはずだ。

 書くとはそういうことだ、とドゥルーズは言っているのだ。
 考えるとはそういうことだ、と言っているのだ。 
 わからないから書くのだ。
 知らないから書くのだ。
 書きながら考えれば、書き始めの思いとそこから出てくる結論がまるで違うのが当り前なのだ。

 世に言う《原子力村》の人たちは科学者でありながら「結論」が予め決められている「実験」を行ってきた人たちだったのかもしれない。
 すくなくとも、不都合な実験結果が出たとき、それを自分たちの実験のミスであるかのようにふるまい、「結論」に手をつけようとはしなかったのだから。
 「結論」に手をつけなかったのは旧日本軍も同じだ。
 しかし、もちろんそれは彼らだけが持っている資質ではない。
 わたしたち自身の中にも根深くそれがある。

 だからこそ、ドゥルーズは言うのだ。
 知らないことについて書け、と。
 あるいは、知らない者として書け、と。
 書かずに考える、ということは、いわば実験抜きの仮説のようなものなのだ。
 そのとき、人は「結論」に合わせてしかものを考えられなくなっている。
 それをただ写し取るためだけならば、書く意味などない、と言うのだ。

 とは言いつつ、わたしがこの間この欄に書いてきた文章のほとんどは「知っていること」ばかりだったんですがね。
 すくなくとも、知らないことの領域に入る前に書くことをやめている。
 それはあまりよい傾向とは言えないのですが・・・・。 
 


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