死の町は死の町だ
遠くに町がみえる。あれが、君のいうところの町なのだろうか?
そうかもしれない。しかし、どうして君があそこに町を認めることができるのか、僕には理解できない。
― カフカ [遠くに町が見える] (『カフカ・セレクションⅠ』 平野嘉彦 編訳) ―
原発事故で人の住めなくなった町に足を踏み入れた感想を〈死の町〉と呼んで大臣を辞職した人がいる。
「あれ、ひどいよね」
子供までそう言う。
だが、その発言はそんなにひどいものなのか。
そうだ、ひどい、ひどすぎる、と言うて、その発言を「万死に値する」と言うたどこかの野党の幹事長もいる。
もし、この人が言うように人が住めぬ町を〈死の町〉と呼ぶことが「万死に値する」なら、人びとが平和に暮らしていた町や村を、人が住めないところに変えてしまった原発は、いったい、いくつの死に値するのだろうか。
億の死だろうか。
兆の死だろうか。
いやいや、永遠の死に値するだろう。
だが、日本には原発を死なせたくない人たちがいるようだ。。
人が住まぬ町は〈死の町〉だ。
住む家がありながら、商店がありながら、そこに住み行き交う人がいないとき、人は異常を感じる。
それが普通の感覚だ。
そこに足を踏み入れたとき、その異常さに打たれた人は、そこを〈死の町〉と呼ぶだろう。
イギリス人、アメリカ人なら〈ゴースト・タウン〉とつぶやくだろう。
亡霊の町。
出歩く人がいてこそ町という。
人が群れてこそ村という。
人が住めなくなった町を〈死の町〉と呼ぶのは当たり前のことだ。
だが、原発によって人が住めなくなった町を〈死の町〉とは言いたくはない人たちがたくさんいるらしい。
なぜか?
原発が町に死をもたらすことを認めては、日本から原発がなくなるからだろうか。
たぶん、あの幹事長はそうなることが「万死に値する」と思っているのだ。
死の町となってしまった町を〈死の町〉と正しく見つめるところからしか、3.11以降の日本の将来はないはずだ。
それをから目をつぶろうとすることこそ「万死に値する」だろう。
菅前首相が〈脱原発〉を言ったのに、野田現首相はその継続を明言しない。
ニュー・ヨークでは原発の輸出もするとか言ったらしい。
なんじゃろか!
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