「聞こえますかぁ」
遠 さがきみを ぼくのなかに溢れさせる
不在がきみを ぼくの臓腑に住みつかせる
― 大岡信 「光のくだもの」 ―
この詩句を読んだのは22歳のとき。
当時中央公論が出していた文芸雑誌「海」の8月号の《現代詩特集》に載っていた詩の中にあった。
もちろん、これは恋の歌だろう。
愛が相手とともにあるところから生じるのに対し、相手の「不在」と相手への「遠さ」がないところに恋は成立しない。
あるいは相手の「不在」と「遠さ」を嘆くことが恋のあかしと言うべきなのかもしれない。
今日、あの3月11日から半年、そしてあの9月11日から10年。
偶然とはいえ、二つの惨劇を思うとき、〈11〉という数字がまるで人が一人一人茫然と立ち尽くしているかのように見えてくる。
今日、太平洋の東と西で黙祷を捧げた人たちがあらためて胸に思ったことは自分が愛した者たちの「不在」とその人たちの「遠さ」だっただろう。
「遠さ」や「不在」は多くの場合、ぼくらに忘却をもたらすものだ。
けれども、それらによってかえってその存在が際立ってしまう相手をすくなくとも一人はぼくらは持ってしまうのだ。
自分の愛が届かぬ者には恋するしかない。
死者が行くという天国は天上のとおいとおいところにあるらしい。
極楽浄土は西の方はるかはるかかなたにあるという。
それらが遠くにあるのは、逆説的だが死者たちが私たちのなかにいるからだ。
遠くにいる者だけが私たちのなかに住みつくことができる。
そうして、手の届かぬ者にだけ私たちは本当に呼びかけてしまうのだ。
けっして応えがないと知りながら。
「聞こえますかぁ」
東北の夏祭りの時、男の人が空に向かって呼び掛けていたとテレビを観た勝田氏が教えてくれた。
「聞こえてますよねぇ」
そう言っていたと言う。
不在と遠さが「遠い者たち」を美しくする。
そして、その美しさはぼくたち自身をも、たぶん美しくしてくれるのだと思う。
それしか、ぼくたちが「遠い者たち」に届けるものはないのだから。
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