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金魚

 

 

   子が問へる死にし金魚の行末をわれも思ひぬ鉢洗ひゐて

                                  島田修司

 

 今朝、金魚が死んでいた。
 昨日まで元気でいたのに、水槽の底に一匹が横になって沈んでいた。
 2年前ブラジルに帰って行ったツヨシ君が私に預けていった5匹の金魚も2匹しかいなくなった。
 子供たちが来る前に、柿の木の下に金魚を埋めたながら、ふと、引用のこんな歌を思い出した。

 夏は生の横溢する季節だ。
 けれども、それは同時に死にあふれた季節でもある。
 あおのけに転がるセミの死骸、コガネムシの死骸。鳥の死骸。そして金魚の死。
 それに群がるアリやハエやシデムシ(死出虫)。
 生というものが、実は死を貪らずにはあり得ないことを、夏は露骨に私たちに見せる季節だ。

 冬の死が寿命を終えた者のいわば必然の死を象徴するのに対し、夏の死は命半ばに生を奪われた者の死を私たちに告げるものだろう。
 だからこそ死者を迎えるお盆は夏にあるのだ。
 それは偶然ではないはずだ。
 生き残った者にとって、魂(たま)送りすべき者とは、あるいは魂鎮めすべき者とは、その死者が命半ばに生を奪われたという思いを、残された者に持たせる死者だからではなかろうか。
 魂鎮めすべき季節は夏よりほかにない。 

 大人にとって金魚の死はいわば〈ありきたりの死〉に過ぎない。
 けれども飼っていた金魚の死は、子供にとって初めて経験する〈身近なもの〉の死なのだろう。
 引用した歌にある子供のあどけない
   死んだ金魚さんはどこに行ったの?
という問いは、実は私たちひとりひとりの内にある生と死への根源的問いにほかならないだろう。
   死んだあの人はどこにいったの?
 その問いを私たちは子供のように、ただあどけなく問うしかないのだ。


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