技術
山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰はいらない。
― エリック・ホッファー 『魂の錬金術』 ―
欠けた入れ歯の補修は20分足らずで終わった。
完璧!
もう口を開いてもマヌケには見えない。
歯医者さんだけではない。
何事であれ、技術を持つ、ということはすごいことだ。
私たちには大変そうに見えることを、何ということもない風にやりおおせてしまう。
技術には当然マニュアルが存在するが、単にマニュアルに従うだけで自分たちにもできる事柄をわれわれは技術とは言わない。
技術とは、一定期間の訓練と経験を積んだ者が身につけることができるものを指す。
私は、若いころから極めて傲慢な人間だった。
その結果、自分が持たない技術を持つ者に従って訓練を受ける、ということを何もしないまますでに老年になった。
私は車の運転免許を取ろうと思ったことすら一度もなかったのだ。
楽器一つ弾けやしない。
そうやって、何一つ技術と呼べるものを持たない役立たずのまま死んでいくらしい。
技術を身につけた人はすばらしい。
子どもはそれを知っている。
だから町の自転車屋さんの修理を飽きずに眺めていたのだ。
学校帰りに毎日新築現場に立ち止まっての大工さんのやることを見ていたのだ。
パン屋さんの前で立ち止まってガラスの向う側を見ていたのだ。
電車の運転手さんの横に立ち、車に乗せてもらったらハンドルを回してみたりしたのだ。
けれど、私はそれを学び身につける謙虚さをどこかで失くしてしまったまま老年を迎えた。
たとえば、今回の震災で明らかになったことは、本当に人を救い人を支えるものは一人一人が身に付けた技術なのだということだった。
口舌の徒でしかない国会議員たちの硬直化した体たらくを見ればそれはますますくっきりと見える。
技術 ―― 医療や土木・運輸といった第一義的な技術はもとより、散髪をしてあげられる、お化粧を施してあげられるといった一見ささやかに見える技術さえ人に笑顔をもたらし人に生きる元気を与えることを私たちは見てきた。
技術者とは対象に直接働きかけてそれを変える最も合理的な方法を身につけている者のことだ。
本当の技術力を持つ者とは対象に合わせてマニュアルを超えることができる者のことだ。
私もまた口舌の徒に過ぎない。
何一つ実質的に人に役立つ技術を持たないままうかうかと六十年になんなんとする年月を過ごしてきた者だ。
今、鏡の前で
イ―
と再びきれいになった歯を映しながら、私には淡い悔いに似た思いがある。
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