蛇に足を付ける人
一人蛇先に成る。酒を引きて且(まさ)に飲まんとす。乃(すなは)ち左手にて卮(さかずき)を持ち、右手もて蛇を画きて曰く 「吾、能く之が足を為さん」と。
(一人の方の蛇ができあがりましたので酒を引きよせて飲もうとしました。それから左手に杯を持って右手で蛇を描きながら言いました。「わしはこいつに足を付けることもできるぞ」)
― 『戦国策』 (「蛇足」)―
竹橋にある国立近代美術館にクレーを観に行ってきました。
とても愉快でした。
絵を描こうとするとします。
その時画家はたいてい「何か」を描こうとします。
描くべき主題やモデルを持っています。
「真珠の耳飾りの女」にしても、「聖母子像」にしても、「凱風快晴」にしても、「ゲルニカ」にしてもそういう絵です。
ところが彼の絵というのは、主題や理念が先にあるんじゃなくて、線が先にある絵です。
まっすぐな線と曲がる線があって、それらがあるときから天使になったり、学者になったりします。
あるいは形が先にあります。
三角や丸や四角があるリズムをもって描かれます。
それが池になったり、花になったりします。
そこにあとから題が付けられます。
「ある医師の診察装置」
「崇高な顔」
「レールの上のパレード」
「跳躍する人」
・・・・・
彼の絵は何も主張しません。
モデルの美も、神の崇高も、戦争の悲惨も何も主張しません。
もちろん、本当は彼もまず最初にモデルや主題があってそのために線や形を描いているのかもしれません。
けれど、彼の絵は何も主張しない絵であることに変わりはありません。
そこにあるのは線であり、形であり、色です。
それが観ている私たちを愉快にします。
恵理さんの息子さんの快君がホワイトボードにぐるぐる線を描いて
「カニ!」
と言ったことを思い出します。
快君が
「カニ」
と言ったらそれがカニであるように、クレーが
「悲喜劇の最終場面」
と言えば、それは悲喜劇の最終場面になります。
もちろん、クレーは快君よりずっと意識的です。
何枚もデッサンをします。
けれど、彼は「お絵かき」の楽しさ以上のことを何もしようとはしないのです。
そして、たぶんこの人ならヘビを描いた後、そこに足を描き加えてしまうかもしれません。
主題ではなく、線がそう呼びかけるからです。
お酒は飲めなくなってしまったかもしれませんが、そこに足を付けるのは楽しかったはずです。
「いつのまにか足が生えてきて困惑するヘビ」
とかなんとか題を付けたりしておもしろがっているかもしれません。
子どもは「美しい」とか「きれい」とかいう観念を持ちません。
それより先に、線や色のおもしろさに触発されて絵を描いています。
それと同じ楽しさがクレーの絵にはあるような気がします。
私はクレーの絵が好きです。
美術館を出たら目の前にある皇居のお堀に積まれた石垣がまるでクレーの絵みたいに見えて、なんだか笑ってしまいました。
クレーにその石の一つ一つに色を付けさせたら、とてもいい絵になりそうでした。
(そのままでも、たいへん味わい深く美しかったのですが・・・)
今日はたくさん歩きました。
ケータイに付いている歩数計によれば
18,549歩。
12,24㎞。
そんな夏至の暑い一日でした。
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