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石の中の意志

 

 
 無縁の人はたとへ
 鳥々は恒(つね)に変わらず鳴き
 草木の囁きは時をわかたずとするとも
 いま私たちは聴く
 私たちの意志の姿勢で
 それらの無辺な広大の讃歌を

 

   ― 伊東静雄 『わがひとに与ふる哀歌』 ― 

  

 福沢諭吉の口述を筆記した「福翁自伝」の中に、子どもの頃、皆がありがたがる神社のご神体を見てみたらただの石ころだったので、なんだこんなものを拝んでいるのかと、それをすり替えておいたという話が書いてあります。
 その本は遠い昔子どもにあげてしまって今手元にないので、正確には書けませんが、彼がそうやった後も人々は知らずにそれをありがたがって拝んでいたので、なんとつまらぬ迷信であろう、と呆れた・・・というような話だったような気がします。
 諭吉はすばらしい合理の人です。

 雷に神を見、高い山に神を見、大きな岩の中に神居ますを見た古代の人を嗤うところから、近代科学は始まります。
 けれども、その科学の粋を集めた小惑星探査機「はやぶさ」が数々のトラブルに見舞われた時、JAXAの担当員は全国の神社のお札をもらってきて管制室に並べたといいます。
 仲良く全国の神々が集うところが、いかにも一神教ならぬなんともにこやかな融通無碍の八百万の日本の神々ですが、最後の最後には、目に見えぬ何かが事の成否を決めるとは、現代の人々の心にも奥深く生きている思いです。

 山田さんはアボガドの種を土に植えたら芽が出て育ってきたといつぞや書いておりました。
 あのような石のように固い締まったものから、なぜやわらかな緑が芽吹くのかを、科学はいろいろと説明しますが、その根本の、
  なぜそれらの物質がそのような条件のもとで芽吹くのか
ということについては、
  そこに含まれている物質にはそのような性質があるからなのだ
ということしか言えません。
 酸素になぜ物を燃焼させる性質があるのか、その根本の理由を私たちは知り得ません。
 科学の説明を究極まで推し進めたところで、分子より原子、原子よりクオークと、ただ物質を細分化してみても、結局は、その細分化して見つけたという物質に、
   そのような性質があるのだ
と述べることしかできないのです。
 あるいはその物質のさらに奥に
   その物質にそのような性質を持たせる「何か」があるはずだ
と推論し、さらに細かく事物を検証しようとすることができるだけです。
 それは、なにやらタマネギの皮を剥いていく行為に似ています。

 私たちが知ることができるのは、そのものがその時々に現わす「現象」だけです。
 その「現象」を見て、私たちはそのものにはそんな「性質」があるのだと思うだけです。
 その対象が人の場合は、私たちはそれをその人の「性格」なのだと言ったりします。

 さて、石の中にこもっている「たま=魂」を見た古代人を嗤うわれわれは、物質の中に目に見えぬ分子や原子を見て解ったような顔をしています。
 けれども、恋人に贈られて指にはめたダイヤモンドのエンゲージ・リングを女の人たちが大事に思うのは、それが炭素の結晶だからではなく、キラキラ光るその石の中に婚約者が込めた「たま」を見ようとするからでしょう。
 贈る男もまたそれを込めて贈るはずです。
 そして男女ともども

    君が代は
    千代に八千代に
    細石の巌と成りて
    苔の蒸すまで

という思いを持たずにはいないはずです。
 (蛇足ながら高校生に古文を教えているとき、
   「代=世」
という語が出てきたら、その古語には
   「男女の仲・夫婦の仲」
という大切な意味も含まれていることを忘れないように、と塾の先生は注意します。)

 さて、そのような男女二人の思いが石のどこにこもるのか私は知りません。
 ひょっとすれば、原子の核とそれをめぐる電子のあわいにあるいはこもるのかもしれませんが、それを見ることはできません。
 なぜなら、《無縁の人》には何も見えぬその石の中に「たま」を見るのは、必ずや彼ら二人の《意志の姿勢》なのですから。


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