花を齎す
キリストはパンのかけらを、
なかばたべ、なかばあたへき。
コオランのをしへにはいふ、
そのなかばいちにもてゆき、
かのあかきばらにかへよと。
- 北原白秋 『麺麭と薔薇』 -
朝、コーヒーを飲んでいるとドアが叩かれて、今年もみんなからのお花が届けられた。
58回目の誕生日。この年になれば、何とての感慨もないが、それでも花を贈られるのはうれしい。
三輪の真っ赤なバラを真中にクリーム色のスイートピーやピンクのカーネーションが囲んでいる。その周りには緑の葉っぱ。
大寒とも思えぬ暖かな陽射し差し込む部屋の、本棚の脇の小さな卓にこれを飾れば、おのずと心ゆたかにやさしくなる。傍らの椅子に腰をおろして喫うたばこがうまい。
コーヒーをすすりながら、バラの歌、何があったかと記憶を探れば、なにやかやと思い浮かぶが、今日は北原白秋。
もう大人になった諸君にそんなものは必要はなかろうが、そこは《凱風通信》、一応文語だから中学生に書いてあげてたみたいに現代語に直しておいてみよう。
キリストさんはパンのかけらを、半分食べて、
残り半分は人々に分け与えたよ。
でもね、イスラム教の聖典『コーラン』にはこう書いてあるんだ、
残りの半分は市場に持って行って、
それをあの赤いバラにかえなさいって。
不勉強でコーランは読んだことはないが、もし本当にこう書いてあるんならイスラム教もなかなかすてきだね。
「人はパンのみに生くるにあらず。バラによっても生くるなり」かな?
そう、人生には《美しいもの》が絶対に必要だもの。
花を贈られてうれしいのは、きっと人間にとってパンと同じくらい大事なものを相手の人から贈られたことが無意識のうちにわかるからなのかもしれない。
そうそう、花を贈ると言えば、勝田氏から教わったすばらしい短歌を書いておこう。
ゆられつつ片頬ほてるバスの中花を齎(もたら)すやうに訪ひたき
大西民子
なんてすてきな恋の歌だろう!
自分が花になれたらどんなにいいだろう!
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