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おとぎ話

 

 

世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。
あるにも過ぎて人は物を言いひなすに、まして、年月過ぎ、境もへだてぬれば言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがてまた定まりぬ。

 

    ― 吉田兼好 『徒然草』 第七十三段 (木藤才蔵 校注) ―

 

 今日は銀座だった。
 などと、別に威張るほどのことではないのだが、先月のはじめごろ書いた

   五月の日 お前と一しよだった

の恋愛詩の大家・橋本忠明氏から突然電話があって、出張で東京にいるから会おうと言うので出かけたのだ。

 うーん、おっさんである。
 というか、じいさんである。
 ということは、おなじく年を重ねたわたくしもまた、まぎれもなく、じいさんである、ということなのだが、自分の顔はふだん見慣れているから、気づかない。
 気づかないが、めったに会わない同い年の者を見れば、イヤでも気づく。
 両人、すでに押しも押されもせぬ、翁、なのである。
 そして、お互い相手を指さして笑うのである。

 さて、その両翁、語ることとて結局は昔話になるのだが、この橋本氏の語る高校大学時代の話、私にはおもしろすぎて、なにやらまるでおとぎ話を聞いているような気がしてきた。
 今日引用した段で兼好さんは

 世の中で語り伝えられていることというのは、本当はつまらないことなのであろうか。多くはみんなウソなのだ。
 事実以上に大げさに人というものは物を言いたてる上に、まして年月がたち、場所も遠く離れてしまうと、言いたいように作って話をして、ましてそれを文字にまで書きとめてしまうと、それがそのまま定着してしまう。

と書いていて、そして、それはまことに正しいのだが、けれどもそのことを割り引いても、やっぱり橋本氏の話はおもしろかった。
 私は笑ってばかりいたことだった。
 もし、彼の話がおとぎ話に思えるとしたら、実は昭和40年代というあの時代そのものが、今から思えばほとんどおとぎ話のような時代だったからだろうか。
 それとも、若いころというものは誰にとってもおとぎ話のような時代だからなのだろうか。
 いずれにしても、今日はおとぎ話の日。なかなか愉快な一日だった。

 ところで、 
 それにしても、この頃の若い奴らは、まじめやなあ、
というのがこの日の年寄り二人の結論だったのだが、本当は単にわたしらがいい加減すぎたというのが正しいのかもしれないな。
 

  
 
  

 

  


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