テーラニシ・ヒローシー
言おうとすることをあまりに重要に考えると、心臓が温かく打ちはじめる。そうなったら失敗するのは目に見えている。ぼくらは大仰になり、センチメンタルになる。
― トーマス・マン 『トーニオ・クレーガー』 (平野卿子 訳) ―
一月ほど前だったろうか、毎日新聞の書評欄に『トーニオ・クレーガ―』の新訳が文庫になったことを荒川洋治が書いていた。
それからしばらくして勝田氏と電話で話しているとき、話題がそのことになり、勝田氏が、
「あれはわたしらの頃はたしか『トニオ・クレエゲル』といったはずのものですが、
トーニオ
ちゅうのは、また大胆ですな。」
と言うので、笑ってしまった。
その『トーニオ・クレーガ―』をはじめて本屋で見かけたとき、立ち読みしたところ、岩波文庫の実吉捷郎訳の
最も多くを愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ
という若いころの愛誦句の部分が
誰よりも深く愛してしまった者は敗者であり、苦しまなければならない
となっているのを見て、
《常に》はどこへ行った、《常に》は!
と思って買うのをやめたのです。
けれども、荒川氏が、実吉訳では「俗人」と書かれている部分が、新訳では《普通の人》となっていると書いてあったことが気になって、こないだしこたま本を買い込んだついでに、この『トーニオ・クレーガ―』もいっしょに買ってしまいました。
で、お気に入りのところは読み比べをしつつ、読んでみたら、この新訳、実は、なかなかよかった!
若い人には(というか、一度読んだ人にはなおさら)この新訳をお勧めしたい。(ちなみに河出文庫です。)
それにしても、名作というのは何度読んでもすばらしいものだなあ。
さて、今日の引用。
私の書いている《凱風通信》の中の、特にダラダラと長くなったやつをみれば、この言葉がいかに正しいかがわかりますな。
大仰!
センチメンタル!!
どちらをとっても、いただけませんなぁ。
ところで、この『トーニオ・クレーガ―』の奥付を見るとなんと
二〇一一年一月二〇日 初版発行
となっておりました。
《凱風通信》と『トーニオ・クレーガ―』との縁浅からぬこと、只事ならず、です。
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