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トクミツ君のトクチ主義

 

 儒学者は、暴力こそが政治の本質だ、などと考えない。法を定め、違反者は権力をもって罰するというのも、本筋ではない (残念ながら、実際にはそれも必要だが)。統治は、まず、人の模範である天子の徳の感化(「徳治」)としてなされるべきである。児童にとってのすばらしい先生とおなじである。具体的には、礼を定め、それに率先してしたがい、正しく美しくふるまえばよい。(中略)。
 また、楽、すなわち音楽も重要である。美しく正しい宮廷音楽とその学習は、人を内面から陶冶し、善き生に導く (これは説得力の無い奇妙な主張と聞こえるかもしれない。しかし、音楽と精神の在り方とには、何か並行関係がないだろうか。日頃「淫楽」に浸っていて、高邁な人格になれるだろうか。怨むような歌や怒号するような歌が流行るのは、世の中何か問題があるのではないだろうか。儒学者は古代ギリシア人同様、そう疑うのである)。

 

   ― 渡辺浩 『日本政治思想史 [十七~十九世紀] 』 ―

 

 夏が近づくと、国道の信号で止まった車から、とてつもない音量の「音楽」が聞こえてくるようになる。
  ズンズチャチャ、ズンズチャチャ
 単調な、しかし腹に響くような低音が大音量でまき散らされる。
 はっきり言って、コワイです、私。
 こんなものを聞いていれば、人は人でなくなるような気がするのだが、ハンドルを握りながらそれをかけている本人は、それでも、人、のつもりであるらしい。
  ズンズチャチャ、ズンズチャチャ
 耳にではなく、まず身体に響いてくる「音楽」というのは、どう考えても、人の思考を停止させるものだと思うのだが、それを愛好する者たちにとっては、そもそも思考なんぞは要らないらしい。
 何も考えずにいられる快に身をゆだねて恍惚とするのを、人と生まれたしあわせ、と思うらしい。

 というわけで、昨日、朱子の話を書いたから、今日は、儒教の何たるか、についての引用です。

 ところで、どうでもいいことですけど、「徳治」と聞くと、高校の時、《ピテカン》というあだ名の歴史の教師 (遺憾ながら、本名は忘れました)が、私らのクラスに徳光君という名前の生徒がいるというだけで、
  「君たちは徳光君がいるから覚えやすいなあ。 
   トクミツ君のトクチ主義!
   トクミツ君のトクチ主義!!」
と何の意味もないことを何度も言っていたことを思い出します。
 ちなみに徳光君は、いつもふしぎな笑顔をたたえた、とても姿勢のよい人でしたので、
  トクミツ君のトクチ主義
という言い回しもあながち誤りではなかったのかもしれません。
 ともかく、夏、車からの大音量を聞くと
   儒教にかえれ!
と言いたくなる私なのでございます。


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