矢を抜け
ある人が毒箭(どくや)に射られて苦しんでいるとしよう。かれの親友、親族などはかれのために医者を迎えにやるであろう。しかし箭にあたったその当人が「わたしを射たものが王族であるか、バラモンであるか、奴隷であるか、を知らない間は、この箭を抜き取ってはならない。またその者の姓や名を知らない間は、抜き取ってはならない。またその者は丈が高かったか、低かったか、中位であったか、皮膚の色は黒かったか、黄色かったか、あるいは金色であったか、その人はどこの住人であるか、その弓は普通の弓であったか、強弓であったか、弦や箭簳(やがら)やその羽の材料は何であったか、その箭の形はどうであったか、こういうことが解らない間は、この箭を抜き取ってはならない」と語ったとする。しからばこの人は、こういうことを知り得ないからやがて死んでしまうであろう。
― 『原始仏典』 (中村 元 訳) ―
なんともはや。
と思うのである。
私には彼らの頭の構造が分らないのである。
昨日の国会論議を今朝の新聞で読みながらそう思う。
矢は刺さっている。
抜くべきなのである。
ところが、お釈迦さまがおっしゃった譬えとちがって、本人ではなく、毒矢を抜いてやるべき「友人」や「医者」が、だれが矢を射たのかを論議しているのである。
こんな「友人」や「医者」がいるものであろうか。
毒矢に当たった者は息絶えるではないか。
震災から70日を超えているというのに、矢も抜かず解毒もせず、一体彼らは何をしているのであろう。
もちろん事故の原因の検証、追及は大事である。
初動の態勢の不備の責任の追及も為さねばなるまい。
けれど、それよりまず矢を抜いてあげてよ、と思う。
いかなる解毒剤がいいのか考えてよ、と思う。
多少の拙速は許される。
傷ついた者たちを救うために何を為すべきかをまず議論なさいよ。
今、現に家族も住まいも職も故郷も失くした人々が途方に暮れているのだ。
それをなんとかせよ。
それに法的財政的裏付けを与えるのが国会の役目であろうに。
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