祈らなくていいのか!
殺すとは支配ではなく無化することであり、理解 [包摂] を絶対的に断念することである。
― レヴィナス 『全体性と無限』 (熊野純彦 訳) ―
夕刊によれば昨日、オサマ・ビンラディン氏がアメリカによって殺害されたらしい。
夜のニュースを見ると、アメリカは大喜びらしい。
十年前アメリカの貿易センタービルが崩壊した9・11のあと、テロの成功を喜ぶパレスチナの子供たちがテレビに映し出された。
それは、あのビルの崩壊と同じくらい私には衝撃的な映像だった。
私は、そのとき自分が
祈らなくていいのか!
と思ったことを今でも覚えている。
あのテロで亡くなった人たちに対して、ではない。
すでに世界中の人たちがその人たちのために祈っていた。
そうではなくて、私が祈らなくてもいいのか!と思ったのは、あの子どもたちに対して、だった。
たくさんの人々が亡くなったことを喜んでいるあの子どものためにだった。
たとえ、それが「敵である」と教えられた人たちであっても、たくさんの無辜の人々が亡くなったことに対して、快哉を叫び、喜びを爆発させる子どもたちがいることがかなしかったのだ。
そのことに対して、世界中の大人たちは、祈らなくていいのか! と思ったのだ。
世界は、人が亡くなることを喜ぶ子どもたちを自分たちが作りだしていることを深くかなしまなければならないと思ったのだ。。
いつか彼らが大きくなったとき、そうやって人々の死を喜んだ自分を心から恥ずかしく思うような大人に成長していることを世界は祈らなくてよいのかと思ったのだ。
けれど世界はあの子どもたちのためにそんなふうに祈ってはこなかった。
すくなくとも、わたしの目に触れた限りでは、そのようなことを語る言説はどこにもなかった。
そして、今オサマ・ビンラディンの殺害をアメリカは国を挙げて歓迎しているらしい。
彼らもまた、あのときのあの子どもたちと同じ地平に立っているらしい。
異なるものに対して、「理解」ではなく「排除」をよしとする世界は10年たっても何も変わってはいないらしい。
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