二つある
徳不孤。必有鄰。 (徳孤ならず。必ず鄰あり。)
― 『論語』 (里仁篇) ―
ニュースで菅首相を見ていると、
ああ、この人には徳がないのだなあ
と、思ってしまう。
今日は福島を訪れたらしいが、その挙動を見ていると、やっぱり
徳がないのだなあ
と、さみしくなる。
この人が首相であるということは日本人が政治家を選ぶ基準の中に「徳」という項目がなくなってしまっていることの結果でもあるのだろう。
「徳」よりは「得」だろうか。
さみしいとすれば、そのさみしさなのだ。
中学二年生の国語の教科書に「論語」の言葉がいくつか載っている。
引用の言葉もその一つ。
教科書にはそのあとに
人徳のある人は孤立しない。必ず共鳴する人がいる。
と、日本語の訳が書いてある。
そうかもしれないが、なにかちがう気がする。
うまくは言えないんだが。
そもそも、「徳」という言葉そのものがよくわからないものだ。
すくなくとも、「論語」ではそれは辞書のようにたったひとつの定義としては与えられない。
むしろ、
先生のおっしゃっている「徳」って何だろう?
と日々考えることが孔子の弟子たちの勉強だったぐらいのものだ。
曾子曰く 吾れ日に三省す。 (学而篇)
とは、そういうことだろう。
だから、これは中学生にはわからない方がいいのであって、よくわからないけれど「徳」という曖昧模糊として何やらとらえどころがない言葉があって、それをすばらしいものだと言っていた昔の人がいた、と思えばいいのである。
古典というのはそういうものである。
けれど、問題はそんなところにあるんじゃなくて、今の中学生が
「今の大人たちもそれをすばらしいことだと思っているらしいぞ」
とは思えないところにあるような気がしてくる。
そんなことはないのかなあ。
ところで、私の手元にある『論語』の同じ個所の訳を写しておいてみよう。
吉川幸次郎氏
道徳は孤独ではない。きっと同類を周辺にもつ、という意味であるに相違ない。
貝塚茂樹氏
道徳を守るものは、孤立しているように見えるがけっしてそうではない。
きっとよき理解者の隣人があらわれるものだ。
宮崎市定氏
修養を心がければ、匿れてやっていても、必ず仲間ができてくる。
浅学をかえりみずに言うなら、吉川、貝塚両氏の訳が「徳」を、「道徳」という、何か形あるものとしてとらえているのに対し、宮崎氏が「修養」という、何か動くもの、すなわち日々の実践として訳しているのを善しとしたい気持ちはある。
でも、実は、私がこの語句の解釈(?)として一番好きなのは堀口大学の次の詩句なのです。
徳は孤ならず
乳房は二つある
― 堀口大学 「乳房」 ―
うーん、すばらしい!
私も徳を積みたくなってきます!
孔子さんもたぶんはにっこり笑って
始めて与(とも)に詩を言うべきのみ。 (八佾篇)
とおっしゃるはずなんですが・・・。
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