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地球が嫌いな奴ら

 

 地球は人間の条件そのものであり、おそらく、人間が努力もせず、人工的装置もなしに動き、呼吸のできる住家であるという点で、宇宙でただ一つのものであろう。(中略)。
 与えられたままの人間存在というのは、世俗的な言い方をすれば、どこからか只で貰った贈り物のようなものである。ところが科学者たちが百年もしないうちに造り出してみせると豪語している未来人は、この与えられたままの人間存在にたいする反抗に取りつかれており、いわばそれを自分が造ったものと交換しようと望んでいるように見える。

     - ハンナ・アレント 『人間の条件』 (志水速雄 訳) -

 

 

 昨日、少年の臓器移植のニュースがあった。
 今日、また日本人が宇宙に行く話をしておった。

 私、ニュースで聞くたびに、舌打ちせずんばあらず、ということが三つある。
  一つ 「エコが大事だ、《地球温暖化》論」
  二つ 「やったね、日本人の宇宙飛行士おめでとう話」
  三つ 「臓器移植は医学の発展よいことだ説」
 もちろん、このほかにも、舌打ちしたきことはこの世に満ちていて、たとえば、あの常軌を逸した嫌煙運動(健康増進法)のごときは舌打ちどころではとどまらないのだが、私はいわば当事者であって直接の利害がかかわるから、あんまり言わぬことにしている。( と言う割には、子どもらには言うておるのだが。) しかし、上記の三つはまあ私に直接はかかわりないから、いわば第三者の意見である。

 それにしても、アホなことである。
 第一の地球温暖化論は、この間の原発事故で、実は原発推進論者たちのデッチ上げたおとぎ話であることが明らかになりそうになって、このごろほとんど聞かなくなったのは大変結構なことである。このまま永遠に聞かなくなれば幸いである。
 でも、そうはならないだろうな。

 日本人が宇宙に行って、それがあたかも科学の発展だなんぞ言うておるのもバカげておる。一回の飛行で日本の税金の何百億円もの銭を使うて、スペースシャトルの中で折りヅルかなんぞを作ったり書き初めをすることがどこが科学の発展なのか、普通に物を考える頭があれば分ることだ。

  何用あって月世界へ。

と言うたは、山本夏彦氏だが、実際問題、宇宙に人が飛ぶことの意味を本当に言える奴はどこにいるのかしらん。

 宇宙へ旅立つものはいわば故郷である地球を捨てたい奴らである。彼らは人間を縛り条件づけている地球が嫌いなのである。もっと言うなら、神に造られたありのままの人間が嫌いなのだ。
 彼らが乗る宇宙船というのは人間が造り出した最高度の人工空間である。彼らは地球よりそこが好きなのだ。
 そこにいた男の一人である毛利某がエラソーな顔をして、宇宙旅行の意義を唱えつつ故郷である地球に向かって
  自然は大事です
などと説教を垂れるのは笑止千万である。
 もっとも、彼が言う「自然」は「エコで守れる自然」のことである。人に制御される「自然」のことである。
 また、その彼が原発のプルサーマル計画のCMに出ていたことだって宇宙へ出かけた者にとっては当然のことなのだ。
 なぜなら、彼及び彼の一党はあるがままの地球がイヤなのであり、あるがままの人間に与えられた「条件」がいやなのだから。
 そんな彼らにとって、人間を取り巻く地球の環境は「与えられたもの」なのではなく「変えられるもの」でなければならないのだ。
 彼らは地球の温度すら人間の手でコントロールできると「本気」で思っているのである。彼らが人間の手による温暖化を言うとき、彼らはこの地球の本当の熱源である太陽の存在を無視しようとする。彼らは地球が人類出現以前から氷河期と間氷期を繰り返していたことを無視する。彼らは、今から一万年前、日本列島がそれまで地続きだったユーラシア大陸から切り離されるほどの温暖化がなぜ地球に生じたかを語らない。
 彼らは本当はあの太陽すらコントロールしたいのである。だからこそ、彼らは宇宙に飛び出す。その彼らが人工の太陽である原発を選択し推進するのは論理的必然である。
 とはいえ、それはなにも宇宙飛行士だけの話ではない。
 年に一二度の帰省や旅行で
  やっぱ、ふるさとはいいよねえ。田舎は最高!
などと言うておる故郷を捨てて都会に出た人たちもまた同じなのである。彼らもまた、都会という人工空間が好きなのである。田舎には十日と住めないのだ。彼らの言う自然とは、快適な人工空間のお口直しほどの「自然」のことだ。
 だから、みんなは事あるごとに眉をひそめて「温暖化」と口走ればことが済むと思っているのだ。
 彼らは自分たちが何かすれば「自然」は変えることができるのだと本気で思っているのだ。都会に住む者は人間の制御の通じない自然を憎んでいる。
 だが、自然は人間のコントロールを拒む。拒むからこそ自然なのだ。
 そして、思い返してみるがいい。我々が生きてきた何十年かの夏冬を。
 去年のようにすこぶる暑い夏もあれば、賢治がいたらおろおろ歩いたような冷たい夏もあった。(あの年はタイ米を食べてみたものだ。)金沢ですら積雪のない冬もあれば、温暖な静岡に積雪があった冬もある。
 言っておく、夏冬の暑さ寒さは年によって違うのが「常態」なのである。いつも同じ暑さの夏は来たことはないし、毎年同じ量の積雪があった土地はない。たまたま暑い年があったところで、それは「地球温暖化」によってそうなるのではない。
 平均とは一つ一つは特殊である個々を均したただの数字に過ぎないのに、多くの人はそれを「標準」と思いこむ。
 そのことの愚に人々は気づかない。
 エコを唱える者たちが無意識に望んでいることは、地球全体をエアコンの効いた室内のようにすることである。
 宇宙飛行士たちが好んで言う「宇宙船地球号」という言い方が示唆しているものは、実は地球の環境をいつも人間が都合よくコントロールできるようになってくれることへの願望である。地球が「宇宙船」のようにコントロールの効く人工空間になってくれとの願いである。
 温暖化を唱える人たちが求めているのは、地球がいつも人間に快適な温度でいてくれることである。
  アホな。
と私は思うが、彼らは思わない。
  できる。
と思っている。人間が二酸化炭素を減らせばそうできる、と思いこんでいる。あるいはそう信じ込ませている。
 なんという傲慢。
と私は思うが、彼らは思わない。その傲慢が今の事態をもたらしていることに気づかない。

 人間の存在可能領域の拡大を空間に求めるのが宇宙開発なら、それを時間に求めるのが医療技術だ。
 あんまり長く書きすぎたから、手短に書く。
 臓器を摘出されたあの少年は「脳死状態」だった。つまり脳は死んでも生命を維持する神経系は生きていた。でなければ、彼の臓器には「使用価値」がない。
 さて、彼から臓器を摘出する時、医者は「死体」に麻酔をかけてからでないとその臓器を取り出せない。なぜなら、
  死体が暴れるから。
 大脳がなくても脊髄の反射で生体が様々に反応することは中学生でも知っている。熱いものに触れたとき無意識に手を離すように、肉体のどこかが切られればその痛みに体は反応する。切り刻まれれば、暴れる。だから麻酔が必要なのだ。
 麻酔がなければ動き回り跳ね回る体を、普通の人間は死んでいるとは言わないだろう。
 私は単純にそう思う。

 ちなみに引用のハンナ・アレントの文章はガガーリン以前の1958年に書かれたものである。彼女はその時点で、人間が宇宙に向かうことの根底にあるものをちゃんと見破っていた。

 などと、エラソーに長く書いたので、また勝田氏に叱られそうだ。
 今日の短歌。

   ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし       寺山 修司


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