預言
「パエトンよ、おまえは大それたことを求めているのだ。(中略)。おまえは人間として生まれながら、人間には不相応なことを要求している。そうだ、天上の神々にさえ許されえないようなことを、わけもわからずに望んでいるのだ。神々なら、みんな、自分の能力に自信は持っているだろうが、しかし、わたし以外にはどの神も、燃える火の車を乗りこなすことはできはしない。」
― オウィディウス 『変身物語』 (中村善也 訳) ―
昔ユダヤには多くの《預言者》と呼ばれる人たちがいた。
同音ではあるが、これは「未来を予言する者」を指すのではない。
これは文字通り「言葉を預かりし者」を指す。
誰の言葉を預かるのかと言えば、神の言葉を預かるのだ。
本来言葉を持たない神が示す様々な徴(しるし)を正しく読み取り人々に伝える者を預言者と呼んだのだ。
震災から今日が一ヶ月目だ。
この日また夕刻、大きな余震があった。
金魚の水は波立ち、猫は机の下に隠れ、棚からいくつか物が落ちた。
原発への注水もまた一時止まったという。
その後も夜にかけて余震はやまない。
科学は言う。
これは北米プレートの下に太平洋プレートがもぐりこみ・・・。
だが、その揺れを身に感じ、言語に絶する津波の惨禍を目の当たりにした私たちは思わず思ってしまう。
さるもののさとしかと。(方丈記)
生身の人間はそう思う。
「荒ぶる神」の姿をして、地をくつがえし、海を陸に注ぎ、1号機から4号機と名付けられた人の手になる「新しい太陽」の4頭の奔馬の手綱を人間の手から奪い去って今も返さぬその「さるもの」が何ものであるか私は知らない。
けれど、もし、私たちがこのことにただならぬ何か感じているなら、それは私たちが、言葉を持たぬその「さるもの」から言葉にすべき何かを預かったということではあるまいか。
無理やり今すぐそれを言葉に変えよ、と言うのではない。
まして、声高にそれを人々に伝えよ、と言うのでもない。
私はただ、その預かった何かを大事に心にとっておこうと思うのだ。
そうすれば、やがて、私たちの中でその何かは言葉に変わるだろう。
むろんこの何かをどう言葉に変えるかは人によって違うだろう。
けれど、私たち一人一人が「さるもの」から「さとし」を預かった者である、という自覚さえあれば、オウィディウスが語り伝えた太陽神アポロンの息子パエトンの愚を私たちは再び繰り返すまいとするだろう。(と思う)。
そうは言っても、「偽預言者」はかならず現れる。
歴史がそれを言う。
そして、人がけっして「歴史に学ばない」ことも歴史は教える。
だから歴史ではなく、オウィディウスが伝えたギリシアの「神話」を書いておく。
パエトンは自分がアポロンの息子であることの証拠にと父から太陽を乗せて走る馬車を借り受ける。
彼は父からねだり取ったその車を、駆り出してみたが、結局それを引く4頭の馬の手綱を放してしまう。
その時、地は焼けただれ、川は干上がり、海は沸く。星さえも火の粉を浴びる。
(ちなみにエチオピア人が黒くなったのも、このとき肌が焦げたからなんだって!)
あまりのことに、母なる大地の女神は言う。
これがわたしへの報いなのですか?
鋤と鍬による痛みに耐えながら、穀物と葉という快い食糧を人と家畜に与えるわたしへの!
ここに描かれるパエトンは、まるで、万物の霊長と号し、あるいは神の姿に似せて作られたと思い込み、その証拠にと、自ら父の真似をしようとしてきた人間という生き物の姿そのものではないか。
今、その果てに原子力とそこから出る放射能という火の粉で母なる大地を傷めつけている人間の姿は、あたかも、遠く何千年も前の神話に「予言」されていたかのようだ。
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