それを「愛」と呼ぶな!
惻隠の心は仁の端なり。
羞悪の心は義の端なり。
辞譲の心は礼の端なり。
是非の心は智の端なり。
人の是の四端あるは猶其の四体あるがごときなり。
この四端ありて自ら能わずと謂う者は自ら賊う者なり。
― 『孟子』 「公孫丑章句上」 (小林勝人 訳) -
なんでも、「愛」、である。
私たちが東北の人たちの身を案じるのもそれは私たちに「愛」があるかららしい。
世界中から(北朝鮮からも!)支援の手が差し伸べられるのも、世界中の人たちの中にある「愛」によるものらしい。
今日のニュースでは「アーティスト」とか今は言うらしい、歌手たちが集まって
最後に愛は勝つ!
という愚にもつかぬ歌を歌っておるのを伝えていた。
能天気!
今日の朝日新聞には99年も生きてこられたという日野原重明氏までが
異国人や見知らぬ人のために行った救済は、本当の「愛の行動」と言えましょう。今回の震災でこうした行動ができる国が多いことに感銘しました。
と書いている。
ほんなあー。
あんた、100年近く生きてきて、それ、違うでしょ!
と、私は思う。
わしも東北の人たちのことが気の毒である。何かできることがあればと思う。
けれど、言っておくが、わしは東北の人たちを全く「愛して」いない!
困っている人がいる、難儀している人がいる。
泣いている人がいる。
それを目にして、手を差し伸べたいと思う。
あるいは実際に手を差し伸べる。
それは「愛」でもなんでもない。
人としてあたり前のことである。
四川地震が起きたとき私だって募金した。
「愛」でもなんでもない。
そうしなくちゃ、と思っただけだ。
孟子さんは今から2400年ぐらい前に言うた。
人には「忍びざるの心」がある。
と。
井戸に落ちそうな子供がいたら思わず人は駆け寄るだろう。それが「忍びざるの心」だ。
と。
それを「惻隠の心」という。
「愛」でもなんでもない。
人なら、そんな気持ちになるのは当たり前のことだ。
そう、孟子さんは言うた。
夏休みの終りぐらいに、毎年
《24時間テレビ・『愛は地球を救う!』》
とかいう番組がある。子どもらはどういうわけか、夜遅くまでそんなものを見たがる。わしはあきれる。
「あのな。」
私は言う。
「『愛』なんて地球を救ったりしないぞ。
と言うか、「愛」って、全然いいもんでないんやぞ。
ものすごいイヤなもんなんやぞ。
キモチ悪ーいもんやぞ。」
子どもは驚いたような顔をする。
「えー?!」
という。
「ほんなら、わしが、わしはおまえらのこと『愛してる』って言ったらどうや!」
女の子たちから声が上がる。
「イヤダー!」
「だろ。キモチワルイだろ。愛は気持ち悪いもんなんや。」
愛なんかいらない。愛よりも親切がいい。
そう書いていたのは、カート・ヴォネガット・ジュニア。 (どの小説だったか、彼の本、人にみんな上げて、手元に一冊もないからわからない。大石君、教えて。)
なんて正しいんだ!
彼の本を読んだときそう思った。今も思ってる。
親切なおばさん、親切なおじさん。
やさしいお姉さん、頼りになるお兄さん。
別に自分を愛していてくれていなくても、そんな親切人たちにたくさん出会える人生はしあわせだ。
ぼくが小さい時のことで覚えているのは、そんな親切なおじさんおばさんだ。
愛したら縛りたくなる。
その人を変えたくなる。
時として、なじりたくなる。
母親みたいに口出ししたくなる。
でも「となりのおばさん」はそんなことしない。ただ、泣いてる私をやさしくなぐさめてくれる。
「近所のおじさん」はそんなことはしない。ただ、困ってる私に笑いながら何かを教えてくれる。
全然、自分が親切にしてるなんて思いもしないで、あたり前のようにそうしてくれる。
だから、その人たちはやってくれたことなんて忘れてる。
なのに、やってもらった方は何十年たっても覚えている。
ずっと自分が、やさしい「近所のおじさん」でいられたらいいな。
私の目の前の人に何かあったとき、その人にとって「親切な人」でいられたらいいな。
そして、自分がやったことをすっかり忘れられたら。
「愛」なんていらない。
少なくとも、自分のやってることを「愛」とかいう名で呼ぶなよ!
そして、人のやってくれたことを「愛」とかいう名で呼ぶなよ!
そんなに人をバカにするなよ!
大石君の言葉を借りるなら、それは
ダメです。
みんな、ただあたり前のことをやってる。
それでいいじゃないか。
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