みどり
誰もがその願ふところに
住むことが許されるのでない
― 伊東静雄 「晴れた日に」 ―
晴れてあたたかだ。昨日は冷たい風が吹いていたが、今日はそれもない。
市役所脇の遊歩道の桜は二分咲きといったところか。半分咲いている木もあれば、まだ一輪の花もつけぬ木もある。
(あれは何がちがうんだろう。日当たりだって同じみたいなのに。)
遊歩道の脇にある階段を上って古墳公園に行く。
草の上にシートを敷いて幾組かの大人たちがくつろいでいる。
ここだって、花は二分咲き。花見ではあるまいが、このお天気だもの、外にいたくなる。
公園一杯を使って始業式を終えた六年生くらいの子どもたちが駆けまわっている。どうやら鬼ごっこらしい。
まったく、子どもというものはともかく走り回るものなのだな。笑ってしまう。
もちろん、花なんてものに目もくれやしない。
実に正しい子どもたちだ。
だけど、すこし、うるさいな。
上って来たのとはちがう階段を下りて、昔天然ガスのタンクがあった草はらに出る。
だあれもいない。
常緑樹の林との切れ目あたりの日向を白い蝶が一羽飛んでいる。
あれはスジグロシロチョウだな。モンシロチョウじゃない。
草に腰をおろす。たばこに火をつける。煙がまっすぐ上がる。
陽射しがあたたかだ。
空が青い。
引用の伊東静雄の詩は、その第一詩集 『わがひとに与ふる哀歌』 の巻頭の詩の一節。
誰もがその願ふところに
住むことが許されるのでない
それは、なにも震災や津波の被害を受けた人たちばかりではない。
かつてもそうだったし、今もそうなのだ。
けれども、どこに住もうと、季節がめぐればそこに春はやって来る。
人の命や営みの悲しみとはかかわりなくめぐりくる季節。
それはやさしいことなのか、それとも残酷なことなのか。
けれど、せめて、被災した人たちもまた
「春なのに・・・」
と思うのではなく、
「それでも、春が・・・」
と思う心があってほしいと思う。
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