《徒然草》 第七十四段
蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る。
高きあり、賤しきあり。
老いたるあり、若きあり。
行く所あり、帰る家あり。
夕(ゆふべ)に寝(い)ねて、朝(あした)に起く。
いとなむところ何事ぞや。
生(しやう)をむさぼり、利を求めて止(や)む時なし。
身を養ひて、何事をか待つ。
期(ご)する処、ただ老と死とにあり。
その来たる事速やかにして、念々の間も止(とど)まらず。
これを待つ間、何の楽しびかあらん。
惑へる者は、これを恐れず。
名利におぼれて、先途の近き事をかへりみねばなり。
愚かなる人は、これを悲しぶ。
常住ならんことを思ひて、変化(へんげ)の理(ことわり)を知らねばなり。
蟻のように集まって、東に急ぎ西に急ぎ、南へ走り北へと走る。
身分の高い者がいる、低い者がいる。
年寄りがいる、若いのもいる。
みんな行くところがあるのだ、帰る家があるのだ。
夜になれば寝、朝になれば起きる。
そうやって、せっせといとまなく働くのはいったい何のためか。
皆、長生きしよう、儲けてやろうという思いが消えないのだ。
いったい、身を大事に保って何を待とうというのか。
われわれが、やって来るのを確実に期待できることと言えば、老いと死だけではないか。
それがやって来ることは速く、一瞬の間も止まることがないのだ。
これを待つのに、何のたのしみがあるだろう。
自らの、その行方も知らぬ者たちは、老いと死が確実にやって来ることを恐れない。
名誉やら利得の獲得にガッパになって、やがて来る老いや死が近いことを思いみもしないのだ。
一方、老いや死の必ずやってくることを悲しむ愚か者もいる。
彼らは、いつまでも変わらずこの世にいることを願って、一切は変化するのだというこの世の道理を知らないのだ。
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この章段の出だしを読んでいると、中也の「正午」という詩を思い出してしまいます。
あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
どちらも、高いところから地上を見下ろしているような視点ですが、中也のそれには、ほんとうに世間から切り離された者の、この世にあって生きている者への、どこか懐かしさをともなった慈しみの気配があるのに対し、兼好のそれには、むしろ俗人への嫌悪のみが際立つように思います。
それは、逆に兼好がほんとうには世間から抜けきれずにいたことのしるしなのでしょう。
それにしても、痛快なまでの対句の連打です。
兼好はこの文体に酔ってしまったのかもしれません。
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