凱風舎
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ドーナツ

 

昔の立川文庫が一冊
なじみの古本屋の棚に飾ってあった。
禿頭のおやじが自慢そうに見せてくれた。
五十何年前にもなるが
私はこの立川文庫を愛読し
わけてもこの
猿飛佐助を熱愛したものだ。
土蔵のある空き家の草ぼうぼうの庭で
巧みに忍術の十字を切り
深く印を結び
蝶の如くひらりと身を翻えした・・・・。
今めくった頁に
いきなりこう書いてあった。
 
――待てよ、俺もはや十才だ
.       いつまでも猿や鹿と遊んでいるわけにも
.        いくまいて云々・・・・
驚いたことに
わが猿飛佐助は十才で志を立てたのだ。
真田十勇士のリーダー格となり
悪と闘い無法を破り
打ち立てし抜群の手柄その数を知らず
大阪夏の陣で主君と共に
華やかにその最後を全うしたそうな―― 
 
――まてよ、私ももう直ぐ七十才だ。
.       そろそろ死ぬ前の臍をきめねばならぬ。
.        何か見栄えのする仕事を残せぬものか・・・・。
とつおいつ思案しながら
いつも一服するドーナッツ屋に入り
一杯百円のアメリカン珈琲と
一個七十円のドーナッツを注文した。
それから
孫娘の機嫌とりの土産に
もう二つ
甘い方のドーナッツを注文した。 
 
 
― 天野 忠 「猿飛佐助の一日」―

 

朝からしずかな雨が降っている。
柚子の木はあらかたその花を散らしてしまった。
地面に落ちた花びらの多くは、もうその白さを失って、土の色に変わらなくなってしまっている。

窓辺の椅子の脇のテーブルには、コーヒーとドーナツ。
ドーナツは昨日生徒にもらったのだ。

おかげで、五月の雨の日の、私の朝食はなかなか閑雅である。
私にも十歳なりの志はあったのだろうが、そんなことはすっかり記憶のかけらもなくなって。

 

 

 


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