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訃報

 

それはいつでもきみの目のまえにある。

 

 

― 長田弘 「テーブルの上の胡椒入れ」―

 

 

今朝の朝刊に、長田弘さんの訃報を見る。
五月三日のことだったという。

しばらく呆然として
ああ、この人の新しい詩はもう読めないのだ
と思う。

それから、詩集を開いて、その幾篇かを読む。
時間が時間になって流れていく。

長田さんは幸福について

それはいつでもきみの目のまえにある。

と書いている。

 

幸福はとんでもないものじゃない。
それはいつでもきみの目のまえにある。
なにげなくて、ごくありふれたもの。
誰にもみえていて誰もがみていないもの。
たとえば、
テーブルの上の胡椒入れのように。

 

と。
たしかに、その通りだ。
けれど、テーブルの上に、たとえ、胡椒入れがなくっても、本棚にこの人の詩集があって、いつでもそれを開くことができる幸せの方がいいとぼくは思ってしまう。

 

詩集「詩ふたつ」からその一篇を載せておく。

 

 

花を持って、会いにゆく

 

 

春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。

 

どこにもいない人に会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。

 

どこにもいない?
違うと、なくなった人は言う。
どこにもいないのではない。

 

どこにもゆかないのだ。
いつも、ここにいる。
歩くことは、しなくなった。

 

歩くことをやめて、
はじめて知ったことがある。
歩くことは、ここではないどこかへ、

 

遠いどこかへ、遠くへ、遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。
そうではないということに気づいたのは、

 

死んでからだった。もう、
どこにもゆかいないし、
どんな遠くへもゆくことはない。

 

そうと知ったときに、
じぶんの、いま、いる、
ここが、じぶんのゆきついた、

 

いちばん遠い場所であることに気づいた。
この世からいちばん遠い場所が、
ほんとうは、この世に、

 

いちばん近い場所だということに。
生きるとは、年をとるということだ。
死んだら、年はとらないのだ。

 

十歳で死んだ
人生で最初の友人は、
いまでも十歳のままだ。

 

病いに苦しんで
なくなった母は、
死んで、また元気になった。

 

死ではなく、その人が
じぶんのなかにのこしていった
たしかな記憶を、わたしは信じる。

 

ことばって、何だと思う?
けっしてことばにできない思いが、
ここにあると指さすのが、ことばだ。

 

話すこともなかった人とだって、
語らうことができると知ったのも、
死んでからだった。

 

春の木々の
枝々が競いあって、
霞む空をつかもうとしている。

 

春の日、あなたに会いにゆく。
きれいな水と、
きれいな花を、手に持って。


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