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《徒然草》  第五十二段

 

仁和寺(にんなじ)にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。
極楽寺・高良(かうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、
「年ごろ思ひつること、はたし侍りぬ。
聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。
そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん。
ゆかしかりしかど、神に参るこそ本意(ほい)なれと思ひて、山までは見ず」
とぞ言ひける。

すこしの事にも、先達(せんだち)はあらまほしきことなり。

 

仁和寺にいたある法師が、年をとるまで石清水八幡に参拝に出かけたことがなかったので、それを残念な事に思って、ある時思い立って、たったひとりで歩いて参拝に出かけた。
ところが、石清水八幡がある男山のふもとにある極楽寺や高良大明神など付属の寺社を拝んで、これだけが石清水八幡だと思い込んで帰ってしまった。
さて、帰って来て、仲間の法師に向かって、
「長年の間ずっと思っていてできずにたことをやっと果たしましたわい。
いやあ、八幡宮は聞きしにまさる尊さでした。
それにしても、そのとき、参詣の人たちがみんな山に登っていたのは、上に何かあったんでしょうか。
私も行ってみたいとは思ったのだけれど、石清水の神様に参詣するのが本来の目的であるはずだと思って、山の方までは行きませんでしたよ」
と言ったそうな。

ちょっとしたことにも、案内する人というものはあってほしいものである。

 

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これも学校の教科書に採られている。
中学校二年。
長年参詣したい願っていた石清水八幡に、せっかくふもとまで行きながら、肝心の本殿には参らずに帰った仁和寺の法師の話である。

すこしの事にも、先達(せんだち)はあらまほしきことなり。

まことに、一般には、そういうものであろうと思うが、しかし、ほんとうにそうなのだろうか。

今はゴールデンウィーク。
各観光地は混み合っているのだろう。

なぜ混み合うかと言えば、皆が皆、ガイドブックやら、インターネットやらを《先達》に、それぞれが

 〇〇こそ本意ならめ

と思っているものがあるからである。
金沢の近江町市場とか東山あたりも人気スポットらしいが、なんじゃい、あんなもの、と私らは思う。
しかし、北陸新幹線に乗ってやって来た人びとは、金沢に来た以上、そこに行かねばなりませぬ、あれを食わねばなりませぬ、と、そこに押し寄せ、そこが混み合う。
そして、それぞれに《本意》を果たした気になって満足している。

それで満足している人に、別にケチをつける気はないが《先達》というものはほんとうに「あらまほしきこと」なんでしょうかねえ。
もちろん、そのおかげで観光地に人はきて、経済効果も十分。
来た人も《本意》をはたして大満足。
いいことづくめみたいですが、別に《本意》なしでふらふら知らない町を歩くのだってわるくない。
どうも、私、《先達》、嫌いです。
(「先生」・「先輩」も嫌いらしいですが)

先達はなきこそよけれ。


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