うすら寒い六月
あらゆるラブレターは
滑稽なのだ
でなければ ラブレターではない
滑稽なのだ
おれもラブレターを書いていた時期がある
みんなと同じように
滑稽なのだ
ラブレターに 愛がこもっていれば
それは必然的に
滑稽なのだ
でも
実は
ラブレターを
一度も書いたことがない者たちだけが
滑稽なのだ
ー フェルナンド・ペソア (あらゆるラブレターは…) (澤田直 訳)-
前回引用した『トニオ・クレエゲル』の中の
言おうとすることをあまりに重要に考えると、心臓が温かく打ちはじめる。そうなったら失敗するのは目に見えている。
という言葉からの連想で、今日はポルトガルの詩人ペソアの詩を引いてみた。
だいたい、「心臓が温かく打ち」もしないで、ラブレターを書こう、なんていう奴はいないからね。
温かい、どころか、熱くなってる。
しかし、熱いからと言って、そのせいでラブレターが「失敗」に終わるとは限らない。
その熱いところがよかったの
なんてこともあるのかもしれないから。(まあ、だいたい、ダメ、としたものだが。)
けれども、ペソアが
ラブレターは滑稽なのだ
と言うとき、その滑稽は結果の成功失敗を指して言っているのではないだろう。
なにしろ、あらゆるラブレターが滑稽だ、と彼は言っているのだから。
おずおず書くにしろ、大胆に書くにしろ、さりげなく書くにしろ、はっきり書くにしろ、投函したにしろ、あるいは結局出さずに燃やしてしまったにしろ、あらゆるラブレターは滑稽なのだと彼は言っているのだ。
ラブレターが滑稽なわけをペソアは
愛がこもっていれば
なんて書いているけど、まあ、ラブレターが滑稽だということに理屈を必要とする男はいないだろう。
滑稽だとわかっているのに、書いてしまう(あるいは、書いてしまった)ところにラブレターの滑稽はあるのだ。
丈夫(ますらを)や片恋せむと思へども醜(しこ)の丈夫なほ恋ひにけり
万葉集の舎人皇子(とねりのみこ)の嘆きは自分の滑稽がわかっていながら滑稽をやらざるを得ない所に立たされた者の嘆きだ。
自分の心臓が相手に向かって熱く打っていることは自分にとっては「あまりに重要」な事柄なのだけれど、それが相手にとっても同じように重要なことになりうるという確信がないところで、ラブレターは書かれる。
だから、ラブレターを書くとき、自分の思いが、これらの言葉によって、本当に相手に届くのだろうかという思いを抱かない者はいないだろう。
たぶん、言葉を超えた思いを言葉で伝えるという矛盾の中にラブレターの滑稽の本質があるのかもしれない。
さて、今日、内閣の不信任案が提出されたそうだ。
言葉というものが本来人に届かないものだ、という絶望にかられたことのない人たちが言葉を弄(もてあそ)んでいる。
おそらく彼らは本当に人に伝えたい言葉を持ったことのない人たちなのだ。
たぶん、彼らは一度もラブレターを書いたことのない人たちなのだ。
彼らは自分の滑稽に気づかない。
もちろん、自分の滑稽に気づかない滑稽さにも気づかない。
十万を超える避難民がいると言うのに、なんともうすら寒い六月のはじまりである。
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