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《徒然草》  第四十九段

 

老来たりて、始めて道を行ぜんと待つことなかれ。
古き墳(つか)、多くはこれ少年の人なり。
はからざるに病を受けて、たちまちにこの世を去らんとする時にこそ、はじめて過ぎぬるかたの誤れる事は知るなれ。
誤りといふは、他の事にあらず、速やかにすべき事をゆるくし、ゆるくすべき事をいそぎて、過ぎにし事のくやしきなり。
その時悔ゆとも、かひあらんや。

人はただ、無常の身に迫りぬる事を心にひしとかけて、つかのまも忘るまじきなり。
さらば、などか、この世の濁りも薄く、仏道を勤むる心もまめやかならざらん。

「昔ありける聖は、人来たりて自他の要事といふ時、答へていはく、『今、火急の事ありて、既に朝夕にせまれり』とて、耳をふたぎて念仏して、つひに往生を遂げけり」と、禅林の十因に侍り。
心戒といひける聖は、あまりにこの世のかりそめなる事を思ひて、しづかについゐけることだになく、常にうずくまりてのみぞありける。

 

年を取ってから、そこではじめて仏の道を修行しようと、将来をあてにしてはいけません。
古い墓を見れば、その多くは、みな年若い人のものです。
思ってもいないときに病気になり、急にこの世をあとにする時になって、はじめて、これまで過ごしてきた自分のありかたがまちがっていたことがわかってくるものなのです。
そのまちがいというのは、ほかのことではありません。
すなはち、すぐにもやるべきことをおろそかにし、おろそかにしてよいことばかり急いでやっているうちに、自分の一生が過ぎてしまったことが悔やまれるのです。

人はただ、死が自分の身に迫っているのだということを、しっかりと心にかけて、ほんの少しの間も忘れてはいけないのです。
そのようにそのことを忘れずにいれば、どうして、この世の利欲に執着する心の濁りが薄くならないことがありましょうか、そしてまた、どうして、仏の道を勤めようと思う気持ちも真剣にならないことがあるでしょうか。

「昔いたという高徳の僧は、あれこれの大切な用件を言われた時、
『今、急ぎの事があって、それが目の前に迫っておるのです』
と言って、耳をふさいで念仏をし、最後には極楽へ往生を遂げたということです」
という話が、禅林寺の「往生十因」という本にも書いてございます。
また、心戒という名の聖は、あまりにも、この世というものがほんの一時のものであることを思って、しずかに膝を折って座るという事さえしないで、いつもしゃがんでばかりいたそうです。

 

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兼好は、この段でも、仏道修行が大事だ、と言っています。
けれど、この人は、けっして、すばらしいあの世、とか、願わしい後世、のことを語りません。
彼はただ、死、という、人にかならず訪れるその定点から、この世を見ることを促すだけです。

《過ぎにし事のくやしきなり》とは、言ってしまえば、後悔のことでしょう。
そして、後悔とは、今という鏡に映して、過去の自分のふるまいをかえりみて抱く思いの事ですが、兼好は、その自分を映す鏡を、今ではなく死の時に置けと言います。
そのとき、今行なっている、まさにそのことが、死の時の《過ぎにし事》になることに思い至れと言うのです。

ところで、用事も聞かず念仏を唱え続ける僧とか、あるいは、この世はお尻を落ちつけて座れるような所ではないと、しゃがむことしかしなかった心戒という坊さんとか、私から見れば、なんともヘンテコリンな人にしか見えないのですが、それが感嘆を以て語り伝えられ、それをまた、兼好も称揚すべきこととして共感を以て書きつけている、日本の中世という時代を生きた人びとが持った心の不思議さを思わずにいられません。


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