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本物の言葉

   わたしの屍体に手を触れるな
  おまえたちの手は
  「死」に触れることができない
  わたしの屍体は
  群衆のなかにまじえて
  雨にうたせよ

   -田村隆一 「立棺」-

 

 震災後2週間を過ぎて、ようやく新聞にたしかな言葉が載るようになった。
 私がたしかな言葉というのは、静かな言葉のことだ。
 声高に言葉を語る者は、多く自らの身体的反射か人から伝え聞いた言葉の拡声器になっているだけの自分に気づいていない。憂い顔で語りながら、その内実が躁状態であることに気づかない。その言葉は人だけではなく自らの不安を増幅する。
 自らの心で幾度も幾度も反芻されて出てくる言葉は静かだ。それは他者に向けてよりも、まず自分に向けて問われ、やがて、控え目に差し出される。
 
 昨日の毎日新聞の夕刊には松浦寿輝と黒井千次が並んでそれぞれのコラムの中でこの震災に触れていた。
 黒井は戦災で開かれなかった自らの卒業式と今の被災地で行われている卒業式を重ねて語り、松浦は冒頭の田村隆一の詩を引用して悲哀が本物の言葉に結実するまでの時間の長さについて語っていた。(今日の朝日の夕刊には松浦自身の詩が載っていた。)
 それにしても、引用された田村隆一の詩のすさまじさはどうだ!
 何度も読んだことのあるその詩句がそのときほど鮮やかに私を撃ったことはなかった。
 そして、引用の詩句に始まる「立棺」と題されたその長い詩を、本棚から引っ張り出した薄い詩集であらためて読み終えたとき、私は言葉を失くしていた。

  わたしの屍体を火で焼くな
  おまえたちの死は
  火で焼くことができない
  わたしの屍体は
  文明の中で吊るして
  腐らせよ

 太平洋戦争という亡国の戦いの後書かれた詩が、今の日本の上に不気味な黙示録のようにリアリティをもって甦っていることに息を呑んだ。私は自分が彼の詩を何一つわかっていなかったことがわかった。

 そして、昨日の朝日新聞の夕刊の方には、あさのあつこのこんな文章が載っていた。

あらゆるものが剥き出しになった。人の高貴さも愚劣さも、優しさも姑息さも、国のあり方も人の生き方も、ことごとくが仮面を剥ぎ取られ、さらけ出された。そんな気がする。
  (中略) 
 おまえはどんな言葉を今、発するのだとこれほど厳しく鋭く問われている時はないのではないか。被災地に必要なのは、今は言葉ではない。物資であり人材であり情報だ。けれど、まもなく本物の言葉が必要になってくる。半年後、1年後、10年後、どういう言葉で3月11日以降を語っているのか、語り続けられるのか。ただの悲劇や感動話や健気な物語に貶めてはいけない。ましてや過去のものとして忘れ去ってはならない。剥き出しになったものと対峙し言葉を綴り続ける。3月11日に拘り続ける。それができるのかどうか。問われているのは、私自身だ。

 
 その通りだと思った。
 あさのあつこの小説は一つも読んでいないが、なんと正しく、ものを見、ものを語る人だろうと思った。

 けれど、本当に日本は「本物の言葉」が必要とされる社会になっていくのだろうか?
 わからない。 
 けれども、とりあえず、今度の統一地方選挙が、かつてない静かさで行われるなら、その希望は持てそうな気がするのだが。


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