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《徒然草》  第二十八段

 

諒闇(りやうあん)の年ばかり、あはれなる事はあらじ。

倚盧(いろ)の御所のさまなど、板敷をさげ、葦(あし)の御簾(みす)をかけて、布の帽額(もかう)荒々しく、御調度どもおろそかに、皆人の装束(そうぞく)・太刀・平緒(ひらを)まで、ことやうなるぞゆゆしき。

 

天皇が父母の喪に服する一年である諒闇の年ほど、しみじみとした感慨を抱かせる事はないでしょう。

その間天皇がお籠りになられる仮屋である倚盧(いろ)の御所のようすは、板敷を他の建物より一段下げて造られていて、そこに竹ではなく葦でつくった粗末な御簾をかけ、その御簾の上部に掛け渡す布である帽額(もこう)も粗末な灰色のものを用い、お道具類も飾りのないものにし、そこに出仕される人びとの装束も,太刀も、その太刀につける飾り紐である平緒の色も、皆抑えた色調であることなどまで、それらがいつものとはまったく異なった様であることに、畏れはばかる思いが強く伝わる感じがします。

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生きている者が、亡くなった人びとへできる唯一の贈り物とは、その人たちのことを「忘れない」ということです。
そして、この段に兼好が書いた、諒闇の年に宮中で行われるというさまざまなしきたりは、たぶん、生きている者たちが故人を「忘れない」ための、実に周到な《装置》であり《仕組み》であろうと思います。
また、そのような《装置》や《仕組み》としての、しきたりや儀礼は、現代の宮中においても行なわれているのでしょう。

まったく関係がないかもしれないが、私は、先日天皇皇后両陛下がパラオを訪れられ、ペリリュー島で、そこで戦争の犠牲になった人たちに対して深々と頭を下げられたことを思い出しています。
あるいは、震災や津波の被災地に何度も出かけ、犠牲になった人びとへの衷心からの哀悼を示される姿を思い出しています。

そして、天皇家の方たちとは、ひょっとしたら、生きている者としての自分たちが、死者たちをいつまでも忘れずにいることこそが、自分たちに課されたもっとも大きな責務であることを、この「諒闇の年」のような宮中でおこなわれるさまざまな儀礼の中で、常に意識するようになっておられる方たちなのではないのかと思ったりします。

もちろん、天皇としての役割が歴史の中で一貫してそのような「悼む者」であったと言おうとは思いませんが、今上天皇が自身をそのような存在で在りつづけようとなさっていることは確かなような気がします。

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私たちにとって、生きるということが、生活することであり、食べるために稼ぐことだとすれば、生きている者が死者を悼み続けるという行為は、言ってしまえば、生きることをやめることです。
ですから、昔から、悼み続けようと意志する者は「生活」をやめ「出家者」となりました。

天皇家の人びとは「生活」が許されていません。
それは、いわば、生まれながらの「出家者」であることを強いられていると言ってのかもしれません。
ひょっとして、雅子妃の精神の不調も、そのように「生活」をもつことができないことから来るものではないのかしら
・・・・などと、また妄想があらぬ方に進んでしまいました。(失礼)

 

 


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