《徒然草》 第二十一段
よろづのことは、月を見るにこそ慰むものなれ。
ある人の「月ばかりおもしろきものはあらじ」と言ひしに、またひとり、「露こそあはれなれ」と、あらそひしこそ、をかしけれ。
折にふれば、何かはあはれならざらん。
月・花はさらなり。
風のみこそ人に心はつくめれ。
岩にくだけて清く流るる水のけしきこそ、時をもわかずめでたけれ。
「沅・湘、日夜東に流れ去る
愁人のためにとどまること少時(しばらく)もせず」
といへる詩を見侍りしこそ、あはれなりしか。
嵆康(けいこう)も「山沢にあそびて魚鳥を見れば、心楽しぶ」といへり。
人遠く水草清き所にさまよひありきたるばかり、心なぐさむ事はあらじ。
どんなことでも、月を見ることによって慰められるものです。
そういえば、ある人が「月ほど感興をもたらすものはありませんな」と言ったところ、もう一人が「いやいや露の方が心しみじみしますよ」とあらそったことがありましたが、それもなかなかよいものでした。
そのときそのときの心にひびくなら、どのようなものでも、ああ、いいなあ、と思わせないものはありません。
それが月や花ならば、いまさらめいて、いうまでもないことです。
とはいえ、折々に吹いてくる風というものこそが、日々の暮らしに中で忘れていた「心」というものを、人に思い出させるもののように思えます。
また、岩にくだけて清らかに流れる水の様子も、四季を問わずすばらしいものです。
《沅湘、日夜東に流れ去る
愁人のためにとどまること少時もせず》
(沅水や湘水の川の流れは日夜東に流れ去り
愁い持つ人のためにとどまることをしない)
という漢詩を見ましたときは、ああ、実にそのとおりだ、と思ったものでした。
竹林の七賢のひとりの嵆康(けいこう)も「山沢にあそんで魚や鳥を見ると、心が楽しむ」と言っています。
たしかに、人の住む場所から遠く離れた、草の清らかに生えている水辺を、そぞろ歩きするくらい心なぐさめられることはないでしょう。
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