《徒然草》 第十八段
人は、おのれをつづまやかにし、奢りを退けて、財(たから)を持たず、世をむさぼらざらんぞ、いみじかるべき。
昔より、賢き人の富めるはまれなり。
唐土(もろこし)に許由といひつる人は、さらに身にしたがへる貯へもなくて、水をも手してささげて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人のえさせたりければ、ある時、木の枝にかけたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。
また、手にむすびてぞ水も飲みける。
いかばかり心のうち涼しかりけん。
孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束(ひとつかね)ありけるを、夕にはこれにふし、朝にはをさめけり。
唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、しるしとどめて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず。
人は、自分を慎み深くし、身のほど知らずな贅沢は退けて、財産は持たず、世間的な名誉や利益をむやみと求めないのが、すばらしいといえます。
昔から賢い人で富んでいた人はまれです。
中国の許由という人は、身につけた貯えもまったくなくて、水さえも手ですくい取って飲んでいたのを見て、ひょうたんというものを人があげたところ、ある時、木の枝に掛けていたのが、風に吹かれて鳴ったのを、うるさいというので、捨ててしまい、また手ですくって飲んだそうです。
余計なものを捨てた彼の心の中はどんなにかすがすがしかったことでしょう。
孫晨は、冬の間、夜具もなくて、藁が一束あるきりでしたが、夕方になればこの上に寝て、朝になると片付けました。
中国の人は、これをたいしたことだと思ったればこそ、記録に残して世に伝えたのでしょうが、わが国の人は、こんなことは書くどころか、語り伝えさえしないでしょう。
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