凱風舎
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かならずかならず

 

この身は、いまはとしきはまりてさふらへば、さだめてさきだちて往生しさふらはんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし。あなかしこあなかしこ。

 

わたしはいまではずいぶん老齢になっておりますから、きっとあなたにさきだって往生してしまうでしょうから、浄土でかならずかならずあなたをきっとおまちもうしあげております。
恐惶謹言、恐惶謹言。

 

― 親鸞 「末燈鈔」 (「親鸞集・日蓮集」)―

 

ためらいがちだった今年の春もようやく本気を出してきたようです。
あたたかな日が続きます。

昨日は街に出てチューリップを買ってきました。
毎年この日はチューリップを買います。
おかげで私の部屋も私の心も明るくなります。
私の大切な日です。

この日チューリップを買うのは、それが私と同い年であった従姉妹の命日だからです。
その人は少し知恵遅れでした。
私が時折会っていたのは小学校に入るくらいまででしょうか。
目のくりくりした女の子でした。
ですから、折々に母から彼女の噂は聞きはしましたが、私の中の彼女は小さな女の子のままです。

彼女が亡くなったのは十年前のことでした。
作業所からの帰りに大型トラックにはねられたと母から電話がありました。
その話を聞いたときの私に、いたましいという思いはありましたが、それ以上の特別な感慨はありませんでした。
母は毎月供養をしているようでしたが、私はその命日はおろか、それがどんな季節だったかすら覚えてはいませんでした。

それから三年たって母が亡くなりました。
仏壇から、父と兄の戒名を書いた紙と一緒に、彼女の命日と戒名を記した紙も出てきました。
そこには「極楽院」という院号が書かれていました。
そうか、極楽院か、と思いました。
それは、いつもニコニコ笑っていた彼女にふさわし院号に思えました。

翌年、三年日記の日付の上になにげなく書きつけておいた彼女の命日に、母の代わりに、と、ふと思い立って花を買いに街に出ました。
仏花を買いに出たつもりだったのですが、その花屋の店先には色とりどりのチューリップの花がたくさん活けられてありました。
そのあかるく屈託のない花の姿を見て、この花こそ彼女にふさわしい花のように思えました。
その日、そのチューリップを持って部屋に帰る時も、それを花瓶に活けるときも、私はとても楽しい気持ちでいました。
そんな気持ちになれたは彼女の積んでくれた功徳のせいなのだと思いました。
それ以来、毎年、私は彼女の命日にチューリップで部屋に飾ることを欠かさずにきました。

 

ところで、もう二十年以上も昔になるでしょうか、検事総長だった方が、「人間、死ねばゴミになる」という本を出して、話題になりました。

自分が死ねばどうなるのかについて、それは私にはわかりません。
けれども、死ねば自分はゴミになると言ったその検事総長も、自分の父母や自分の愛した人たちが亡くなったとき、その人たちが「ゴミ」になったとは思わなかったはずです。
なぜなら、まちがいなく、死んだ者たちは残された者の胸に生き続けるからです。

それが不滅であるかどうかは知りませんが、死者に魂というものがあると人が思うのは、死んだ人がそのように自分の胸に生き続けるからです。
人の死を悼み、葬り、そこに花をささげた跡はネアンデルタール人の遺跡からさえ見つかっているそうです。
人の死を悼むそのような思いは、死者に魂があるという思い抜きでは考えられないものでしょう。
現生の人類と同じく、ネアンデルタールの人びともまた、魂の存在を疑わなかったのだろうと思います。

今は「愛」とか「絆」とかいう言葉がはやっているのかもしれませんが、墓地にいけば、表に「倶会一処」と書かれたお墓がたくさんあります。
この「くえいっしょ」と読む四字熟語は《倶(とも)に一つ処で会す》という意味です。
ここに言う「一処」とは「極楽浄土」の意味です。

死んだ者に魂があると人びとが考えるとき、その亡くなった人が、死後、その人を慈しみ愛した人たちと一緒にしあわせに暮らす「浄土」あるいは「天国」と呼ばれる、この世とはちがう世界が、私たちの目には見えないどこかにあるはずだ、と、人びとが思い描くことも、やはり自然なことのような気がします。
すくなくとも私にとって、あの従姉妹が、亡くなった彼女の父親や祖父母、あるいは私の父母や兄たちと一つ処で笑顔で暮らしている様を思い浮かべるととてもしあわせな気持ちになります。
私の父母や兄も笑っているように思えます。

親鸞は、今日引用した信者からの手紙の返事に、自分はかならず先に向う(浄土)で待っていると書いています。
かならず待っているとは、その信者もまた、かならず浄土に往生するということでもあります。
人がこの世でどんな深重な悪行を為し重ねていようと、ひたすら阿弥陀仏を頼り、ただただ南無阿弥陀仏と唱えるなら、かならず浄土に往生できるというのです。
親鸞は、繰り返します。
「かならずかならず」と繰り返します。
「かならずかならず」一処で会えると約束します。

浄土真宗というのはなんとやさしい教えなのだろうと思います。
父母も兄も、祖父母も、従姉妹も、私の田舎では皆「なんまんだぶ」で送られました。
かならずかならず皆「倶会一処」であるにちがいありません。

机の上で黄色いチューリップがみんなで笑っています。

 

 


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