《徒然草》 第一段
いでや、この世に生まれては、願はしかるべき事こそ多かめれ。
御門(みかど)の御位は、いともかしこし。竹の園生(そのふ)の末葉(すゑば)まで、人間の種ならぬぞやんごとなき。
一の人の御有様はさらなり、ただ人も、舎人(とねり)など給ふきはは、ゆゆしと見ゆ。
その子・孫までは、はふれにたれど、なほなまめかし。
それより下つかたは、ほどにつけつつ、時にあひ、したりがほなるも、みづからはいみじと思ふらめど、いとくちをし。
さて、この世に人と生まれたら、こうなりたいああなりたいと思うことは多いようです。
天皇の御位はたいそう畏れおおいものです。
その御子や御孫にいたるまで、みな普通の人の血筋とはちがうというのが尊いのですもの。
摂政・関白になられるお方のあり様は言うまでもないことだが、そのような役につかないお方でも、今で言うSPにあたる舎人などを天皇から賜るような身分の人はたいしたものに見えます。
その子や孫のあたりまでは、落ちぶれてしまっていても、やはり優雅です。
それより身分が下になると、その家柄に応じて、時勢に乗って「俺はやったぜ」みたいな得意顔になって、自分ではすばらしいなどと思ってはいるようですが、まあ、はたからみるとずいぶんいただけないものです。
法師ほど羨ましからぬものはあらじ。
「人には木のはしのやうに思はるるよ」と清少納言が書けるも、げにさることぞかし。
いきほひまうに、ののしりたるにつけて、いみじとは見えず。
増賀(そうが)のひじりの言ひけんやうに、名聞(みょうもん)ぐるしく、仏の御教(みをしえ)にたがふらんとぞおぼゆる。
ひたぶるの世捨人は、なかなかあらまほしきかたもありなん。
法師くらいうらやましいと思えないものはないでしょう。
「人から見れば木の端くれみたいにみえちゃうわ」と清少納言が書いていたのもまったくそのとおりです。
権勢が盛んで、世間の評判が高い僧を見るたびに、「べーつにぃ」と思ってしまいます。
増賀上人が言ったように、世間的な名誉ばかりを欲しがっているようで、それじゃあ、仏さまの教えと違っているだろうと思えてきます。
それにひきかえ、一途に世を捨てたような人は、かえって、自分もそうありたい、というところもきっとあるでしょう。
人はかたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。
物うちいひたる、聞きにくからず、愛敬(あいぎゃう)ありて、言葉おほからぬこそ、飽かず向はまほしけれ。
めでたしと見る人の、心おとりせらるる本性見えんこそ、口をしかるべけれ。
しな・かたちこそ生れつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも、移さば移らざらん。
かたち・心ざまよき人も、才(ざえ)なく成りぬれば、しなくだり、顔憎さげなる人にも立ちまじりて、かけずけおさるるこそ、本意(ほい)なきわざなれ。
人は容貌や風采がすぐれているのが、のぞましいことにちがいありません。
なにかちょっとしたことを言っているのも耳障りではなく、相手に好感をもたれるふうで、言葉が多くない人とはいつまでも一緒にいたいと思うものです。
すばらしいと思って見ていた人の、幻滅させられるような本性が見えてしまうのは、がっかりするというものです。
人品、容貌は生まれつきというものだろうが、心はどうして、賢いうえにも賢い方へ移そうと思ったら移らないことがありましょうか。
容貌や気立てのいい人でも、学才がないということになれば、下品で顔も憎々しげな人の間に立ちまじって、手もなく気押されているのを見るのは、せっかくの顔や気立てなのにと思われてしまいます。
ありたき事は、まことしき文の道、作文(さくもん)、和歌、管弦の道。
また、有職(ゆうそく)に公事(くじ)の方、人の鏡ならんこそ、いみじかるべけれ。
手などつたなからず走りかき、声をかしくて拍子とり、いたましうするものから、下戸ならぬこそ、をのこはよけれ。
身につけたいことは、本格的な学問、漢詩や和歌を作ること、それに楽器の演奏です。
また、朝廷の制度やしきたりの知識や政務、儀式の方面で、ほかの人たちの手本となるようなのが、すばらしいというものです。
文字もきれいにすらすら書いて、いい声で音頭を取り、酒をすすめられて迷惑そうな様子はしてはいるものの、実はちゃんとお酒は飲めちゃう、っていうのが、男はいいね。
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