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明治の雪

 

  降る雪や明治は遠くなりにけり

 

 

                   中村草田男

 

この有名な俳句の載った中村草田男の第一句集「長子」は昭和十一年十一月にその初版が発行されている。
また、この俳句が発表されたのは昭和六年の「ホトトギス」三月号だという。

昭和六年、といえば西暦の1931年。
中学生も歴史で習う満州事変が起きた年だ。
明治が終わって二十年がたっている。
昭和十一年は1936年。
これは二・二六事件が起きた年、明治が終わって四半世紀がたっている。

作者の自解によれば、これは作者自身が通っていた小学校を二十年ぶりに訪れたときにできた句であるという。
そのことを下敷きにしながらこの句を評して、山本健吉はこのように書く。(「現代俳句」)

 

「明治は遠くなりにけり」とは草田男の悔恨である。しかもそのような追想をさそった小学校や少年たちは句の上から抹殺して、いっさいを掩(おお)いつくして降りしきる雪の形象だけを示すのだ。しかもこの句からは明治の小学唱歌がきこえてくるようだ。雪がいっさいの追想も哀愁も悔恨も美しく導き出してくるのである。

 

たしかに、その通りであろう。
けれども、この句が人びとの口に膾炙(かいしゃ)したのは、はたしてその美しいノスタルジアのせいばかりなのであろうか。
人びとは「明治は遠くなりにけり」という言葉の中に、実は自分たちが生きている時代の暗い影を見ていたのではないだろうか。

明治に生まれ、昭和初年に成年だった草田男が詠んだ明治の「遠さ」と、昭和20年代の終りに生まれた私たちにとっての明治の「遠さ」はちがう。
にもかかわらず、草田男にとっても、それを読んだ当時の人びとにとっても、その明治は「遠くなりにけり」だったのだと思う。
人びとにはその「遠さ」への共感があったのだと思う。

安東次男は「明治の雪」という短い文章の中でこんなふうに書いている。(「花づとめ」所収)

 

明治の雪といえば、中村草田男の

降る雪や明治は遠くなりにけり

はあまりにも有名になりすぎて、それが昭和六年の「ホトトギス」三月号に発表された句であることなど、今ではどうでもよくなっているが、昭和初年の日本の社会をこの句はやはり、象徴的に現わしているのだろう。

 

安東は「現わしている」と書き「表している」とは書かない。
そして同じく明治の雪を歌った昭和十六年の山口青邨の

 

外套の裏は緋なりき明治の雪

 

という句とともに、これらの句が「その時代の空気を、表に出さずしかと言留めている」と書いている。

こころみに昭和六年にいたる十年ほどの年表を開いてみる。

大正十二年(1923) 関東大震災。
大正十四年(1925) 治安維持法成立。
昭和二年 (1927) 金融恐慌。
昭和三年 (1928) 全県に特別高等警察〈特高〉設置。満州で張作霖爆殺。
昭和四年 (1929) 世界恐慌。
昭和五年 (1930) 統帥権干犯問題起きる。

暗い険しい時代だ。

 

こんなことを書いたのは、今日がなんとも気の重い日曜日のはじまりだったからだ。
「イスラム国」に捕らえられていた後藤健二さんが殺害されたと朝のニュースが伝えていた。
首相はテレビカメラの前で

《テロリストたちを決して許しません。その罪を償わさせるために国際社会と連携してまいります。》

と語っていた。

昭和が終わってすでに四半世紀をすぎた。
昭和も遠くなったのだ。

ところで草田男の第一句集「長子」は《某月某日の記録》と題された一連九句の俳句で終わっている。
その中から二句を引いておく。

 

此日雪一教師をも包み降る

頻り頻るこれ俳諧の雪にあらず

 

 

ちなみにこの《某月某日》と書かれた「この日」とは二・二六事件当日のことである。
この日降り頻(しき)った「俳諧の雪」にはあらぬ雪は、市井の一教師をも包み降る「時代の雪」だったのである。


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