風信子
絲は張られてゐるが もう
誰もそれから調べを引き出さない
指を触れると 老いたかなしみが
しづかに帰って来た……小さな歌の器
或る日 甘い歌がやどつたその思ひ出に
人はときをりこれを手にとりあげる
弓が誘ふかろい響……それは奏でた
(おお ながいとほいながれるとき)
― 立原道造 「民謡 ― エリザのために 」―
昨日一日降り続いた冷たい雨も上がって、今日は真っ青な空が広がっている。
陽が射すので、窓を開けていても平気だ。
誕生日に贈られた花は十日たった今もまだ机の上で匂っている。
いちばん匂うのはヒヤシンス。
今日の空のように深い青い花だ。
ヒヤシンス。
漢字で書くと「風信子」。
美しい名だ。
そういえば、立原道造の詩集「萓草(わすれぐさ)に寄す」は、その下に
《風信子叢書 第一篇》
と書かれている。
これについて、詩人自身がそのおぼえ書きをこんなふうに書きはじめている。
重なり合った夢は、或る日、しづかに結晶した――
僕は風信子叢書の第一篇に《萓草に寄す》と名づけて、楽譜のやうな大きな本を持つことができた。それは僕のソナチーネだった。
そうですか、「楽譜のやうな」詩集ですか。
なんとまあ、おしゃれな!
そしてそのしめくくりにはこんな言葉が。
……僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからないしらべとなつて、たしかめられず心の底でかすかにうたふ奇蹟をねがふ。そのとき、この歌のしらべが語るもの、それが誰のものであらうとも、僕のあこがれる歌の秘密なのだ。
これを、なんとまあ、甘い、と言うのは簡単だ。
けれども、立原道造のこの甘さはむしろ「決然たる甘さ」なのではないかと私は思う。
甘く、柔であり、軟であり、弱であり続けるには、実は私たちが思う以上のほんとうの強さがなければならないのだと思う。
私たちは、ほんとうは、よわいので、ともすれば、自分が剛であり、硬であるふりをしてしまう。
強いふりをしてしまう。
(すくなくとも私はそうだ)
さて、今日の引用は《風信子叢書 第四集》 詩集『優しき歌』から。
私たちのこころの中には、ほんとうは、自分がやさしくあるための絲は張られているのに、このごろこの国では、なぜか、誰もがそれに触れようとしない国になろうとしてはいないか。
その調べを聴かない国なろうとしてはいないか。
弱い人間であり続けるしずかな勇気としなやかな強さを私も持てたらいいのにと思う。
ちなみに、今日の引用の詩には俊ちゃんちの長男・響君と長女・奏ちゃんの名前が二人そろって入っています!
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