考えざるべけんや
一昨日の朝日の夕刊に中村稔さんの新作の詩が載っていた。
「中村稔?昔の巨人のピッチャーか。」
と勘違いなさる方もおられようが、諸兄のなかに私のほかにも彼のファンの方もおられるので転載させてもらう。
ひょっとすれば、これが彼の最後の詩になるかもしれないから。
晩秋小景 中村稔
枝々に可憐な花をつけたハギを見る。
淡い紅色のハギの可憐な花々を見る。
来年ハギを見ることは覚束ないから
私は私に残された可憐な生を思う。
私は憲法九条について考える。
私は集団的自衛権について考える。
無心にスマホをうちこむ若者について、
また、人類の未来について考える。
二十歳まで生きることはあるまいと
死を目の前に私が生きていたころ、
ハギは可憐な花々を咲かせていたが、
私はハギに目もくれなかった。
妻も立ち去り、友人たちも立ち去り
思いがけず私は生きながらえた。
ひっそりと淋しい天地の間に佇み
私は可憐なハギの花々に見いる。
かたわらについた略歴に1927年生まれとあるから中村稔さんは御年87歳ということになる。
この十六行の詩にもちろん往年のソネット(十四行詩)の瑞々しさはない。
書かれていることに何も目新しいことはない。
けれども、ああ、やっぱり、中村稔だな、と思って読む。
ここに淡々とうたわれているのは、老年から振り返ってみたときの、人の生というものの可憐さだ。
それは古来、年を重ねてきた多くの詩人たちがつぶやいてきた言葉だが、そのように幾多の詩人たちが語ってきたということは、そこにたぶんは人生の真実があるということだろう。
中村さんは87歳になっても憲法九条や集団的自衛権について考えている。
それを中村さんは、戦争というものの圧力と影を全身で感じなければならなかった彼の青春を通して考えている。
考えているからといって、何か具体的な「行動」を起こすわけではない。
私たちが「行動」ということを常にパフォーマンスの意味でしかとらえられなくなっているとしたら、それはまちがいなのだ。
「考える」ということがもっとも大きな行動である場合がある。
特に今日のようにムードを盛り上げるためだけの実体のない言葉と目くらましのパフォーマンスを政治家の「行動」と考えている者が政権を担っている時代においては、なおさら、一人一人が立ち止まって考える、ということがもっとも大切な「行動」なのだと思う。
八十七歳の中村氏は考えている。
六十を過ぎたばかりの私ごときは、豎子(じゅし=青二才)なんぞ考えざる、であろう。
投げやりにならぬようにしようと思う。
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