帰らねばならない世界
そういう夜の間違っているところは、きみに帰らねばならない世界があるということだけだ。
- レイ・ブラッドベリ 「生涯に一度の夜」 (伊藤典夫 訳) -
昨日の勝田氏のお月さまの写真を見てたら、そんな大きなお月さまにふさわしい話を思い出した。
レイ・ブラッドベリ 「生涯に一度の夜」 。
15ページほどのお話。
それについて私がごちゃごちゃ書くよりも、その一部をまる写しにした方がずっとよさそうだから、写してみるね。
勝田氏のお月さまにふさわしいかどうか・・・。
「春の夜の散歩というのに憬れていてね。そら、朝まで温度が下がらない、暖かい夜があるだろう。
歩くんだ。女の子と一緒に。一時間ほど歩くうちに,周りの物音や景色から切り離されたような場所に着く。
丘に登って腰を下ろす。星を見上げる。
彼女と手をつないでいたいな。
草の香りがして、まわりの畑からはすくすく伸びる小麦がにおって、自分が大地の真ん中にいる、アメリカという国の中心にいるのを感じるんだ。まわり中に町があり、離れたところにはハイウェイも走っているけど、誰もぼくらのことは知らない。ぼくらが丘のてっぺんにいて、草むらに寝て、夜の景色を見ていることを。
彼女とは手を握っているだけでいい。
これ、わかるかなあ。
手を取り合っているだけで満足なんてことがあると思うかい?
動きはなくても心は伝わる。そういうことさ。
その夜いろんなことが起こっても、そういうことが一生記憶に残るんだ。手をとりあうことが、それ以上の意味を持つ。ぼくは信じるよ。あらゆることが幾度も起こって、終わって、驚きがなくなったとき、最初に何が起こったかが重要になる。
だから、まずは長いことすわっていたいね。一言もいわず。そういう夜にふさわしい言葉はないから。おたがい顔も見合わせないだろう。
そして遠く、町の明かりを見るうちにわかってくる。
ほかにもこういう丘に登った人たちがいままでにいたし、これに勝る経験は世の中にはないということだ。これは何ものにも換えられない。どんな屋敷や報酬やセレモニーを用意されたって、そういう夜に比べたら、何の価値もない。
都市があって人びとがいて、夜を迎えた家々のいろんな部屋に暮らしがあっても、それとはまったく別なのが、そういう丘、澄んだ外気、星空、手をとりあうことなんだ。
そのうちとうとう、二人は口もきかないままに月明かりの中でふりむき、顔を見合わせる。
そうして一夜を丘の上で過すわけさ。
こういう発想はどこか間違っているかな。
正直に言ってほしいが、どこか間違っているところがあるかい?」
「ない。そういう夜の間違っているところは、きみに帰らねばならない世界があるということだけだ。」
これはたしかに生涯に一度しかない夜かもしれない。あるいは、一度もない理想の夜かもしれない。
けれど、引用にあるように、残念ながらそれは僕らがとどまっているわけにはいかない場所だ。なぜってぼくらには「帰らなければならない世界」があるから。
それを拒もうとして挫折した者の数だけ生活者がいる。大人がいる。
いやでもおうでも、「生活し、生きていく」とはそういうことだ
まして、今、福島の原発では通常の1万倍に及ぶ放射線量を含む水が漏出しているという、そんな過酷な現実がぼくらのすぐそばにある。そこから目をそむけようとは思わないし、またそむけることはできないが、ただ、月の照るあたたかな春の夜のこんな世界をぼくらは胸のどこかに持っていてもいいんじゃないかと思う。
こんな時期、ぼくがこの欄に書いていることは、みんなこれと同じおとぎ話みたいな事ばかりだ。
変だね。でもしょうがないよ。
だって、まじめな顔でみんなと同じ「現実」を語ることなんて、遠い昔からやめている男なんだもの、許したまえ。
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