凱風舎
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修道院

 

見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。
しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。
しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。

 

― 「旧約聖書 列王記 上 」―

 

 

部屋の奥の暗がりの中に祈り机に肘を置き膝まづいて祈る白い修道衣を着た若い修道僧がいる。
画面の右隅には白いベッド。
そして部屋の中央に置かれた薪ストーブの煙突の左半分だけが窓からの光で白く見える。

 

画面全体が灰一色の粗い画面になる。
その中をやはり灰色の何かが落ちてくる。
雪?
雪。
大きなぼたん雪。

 

 

老いた修道僧がフェルトの生地を大きな作業机の上に広げる。
その生地を伸ばす手は乾き皺だらけだ。
短い巻尺で長さを計り、大きなはさみでフェルトを裁つ。
はさみがフェルトを切る音だけが聞こえる。

・・・・

もう映画が始まってどれくらいたつのだろう。
映画からは人の声がしない。
人の声とて、あるのは、祈りの声とグレゴリオ聖歌を歌う声だ。
新しい修道服を新たに入所した男に与えるときも、バリカンで頭を刈るときも、彼らは何も話さない。
廊下ですれちがっても挨拶すら交わさない。
(ああ、そんな彼らも猫を呼ぶときは猫の鳴きまねをする!)
聞こえてくるのは鳥の声、水の音、鐘の音、靴音、食器を置く音・・・・・。
何の説明もナレーションもない。
そして、ときおり、冒頭に引用した旧約聖書の一節が文字として出てくる。
(もっとも、画面に出てきた言葉は、これと少しちがっていたような気がするのだが)

 

見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。
しかし、風の中に主はおられなかった。
風の後に地震が起こった。
しかし、地震の中にも主はおられなかった。
地震の後に火が起こった。
しかし、火の中にも主はおられなかった。
火の後に、静かにささやく声が聞こえた。

 

聖書の中で語られていることは、神が預言者エリヤに向かったとき、神は大風や地震といった大きく激しいその力ある徴(しるし)の中にではなく、むしろ神の声はそのあとのかすかなささやきの中にあったということだろう。
その言葉が何度も引用される。
映画「大いなる沈黙の中へ」はそんな神の声を聞こうとする、食事すら週に一度の会食を除けば独居房で取っている修行僧たちの冬から冬への一年を映す。
あるのは事件ではない。
あるのは繰り返しだ。
けれどもそれがわたしたちを画面に引きつける。

一ヶ月以上前、大石君はこの映画を評してこう書いている。

 

 スクリーン上に写される映像に対する説明を一切無くすことにより、映画を見る時の方向性、力の流れが、スクリーンから客席ではなく、客席からスクリーンへ向かわざるを得ないつくりになっている。
 つまり、観客はスクリーン上に放り出された情報の能動的な解釈を強制されることになり、その結果、見ているうちにスクリーン上に流れる時間に体ごと取り込まれてしまう感覚に陥る。

 (「大石君のブログ 9/1~9/7 」)

 

そのとおりだ。
なんと的確な指摘だろう。
私もまた3時間になんなんとする間、映画の中に流れる時間の中に取り込まれていた。
そして「情報の能動的な解釈を強制され」ていた。

そんな中、私がしきりに思っていたことは、なぜか道元のことだったりした。
食事の準備や菜園の雪かきをする青い修道服を着た老僧を見ながら「正法眼蔵随聞記」の中にある宋の典座(てんぞ)の話を思い出し、それが頭から離れなくなったのだ。

 

主よ あなたは私を誘惑し、私は 身を委ねました。

これもまた、何度か画面に出てくる言葉だ。
これの出典は明かされていないが、「エレミヤ記」の口語訳にはこう書かれている。

主よ、あなたがわたしを欺かれたので、わたしはその欺きに従いました。

誘惑であれ、欺きであれ、神の囁きによって(あるいはそれを聞いたと感じて)、彼らは世俗の価値を離れて、そこにいるのだ。
そして誘惑であれ、欺きであれ、わたしたちもまた、その中に流れる時間の中に身をゆだねて映画を観ていたのだ。
そのとき、私たちもまた幾らかは世俗の価値観をはなれていたのだ。

それにしても、なんと美しい映像であったことだろう!
片側の窓から射すヨーロッパの低い太陽が建物の中に光と影を与え、その深い陰影の中でもの言わぬ修行僧たちが静かに起居する。
カメラはそれをシンメトリックな西洋建築の構造の中心線から常に少し脇にずれたアングルで映す。
それが、えも言われず美しい。
フェルメール、あるいはジョルジュ・ド・ラ・トゥール、あるいは何年か前に観たハンマースホイといった西洋の画家たちのことがしきりに思い出される。

 

勝田氏はすでに観に行く予定があるそうですが(私に先を越されたと悔しがっていた!)、映画「大いなる沈黙へ」は、金沢でも今、上映されているそうです。
あなたも、大石君や私に「欺かれ」、「誘惑」されて、この世界に満ちている「静かなささやき」に耳を傾けられてはいかがでしょう。


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