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茨木のり子のかたくなさ

 

沖に光る波のひとひら
ああそんなかがやきに似た
十代の歳月よ

 

―茨木のり子 「根府川の海」―

 

茨木のり子の詩集「自分の感受性くらい」が刊行されたのは昭和五十二年だ。
彼女が生まれたのは大正の末年なので、彼女の数え年は昭和の年数と重なる。
だから、この詩集を出したとき、彼女は50代の前半ということになる。
詩集と同名の詩の全文を載せてみる。

 

自分の感受性くらい   茨木のり子

 

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのだ

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたし

初心が消えかかるのを
暮らしのせいにするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

 

これが詩であるのかどうか私は知らない。
ただ、こんなことを言うおばさんはちょっとイヤだなと思うだけである。

もっと年を取ってから彼女は「倚りかからず」という詩も書いた。

 

 倚りかからず  茨城のり子

 

もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合なことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

 

これは1999年刊。
もう平成になっているから、西暦から25年引いてみれば70歳を超えている。
これも詩なのかどうか私にはわからない。
これは以前本屋でぱらぱら読んだ、100歳近くで詩集を出したという柴田トミとかいうばあさんの「くじけないで」とかいう「詩」と変わらない場所にあるように私には思える。
そして、トミさんとはちがって、これはカワイゲのないばあさんの詩だ。

ひょっとしてこの人には、「できあいの思想」とか「できあいの宗教」とか「できあいの学問」などというような言葉を吐ける者は、思想も宗教も学問もほんとうには求めたことがない人なのだ、ということがわかっていないのだ。
あるいは、そんな言葉を吐く人は、「ほんとうの思想」や「ほんとうの宗教」や「ほんとうの学問」に出合ったことがない人なのだ、ということが。

詩集を通読してみて、あるいは、ひょっとしたらこの人は《ほんとうの詩》というものすらわかっていなかったのかもしれないと思ったりしたが、そのことについては書かない。
ただ、《そう…かな》さんが提示してくれた問いを胸に彼女の詩集を通読して思ったのは、彼女の中にある「《わたしが一番きれいだったとき》の自分」に対する悔しさの根深さだった。

もう一度言えば、彼女の年齢は昭和の年代と重なる。
だから、終戦の年、彼女は十九歳だった。
12歳、今の中学校にあたる女学校に上がったときが日中戦争の翌年である。
「わたしが一番きれいだったとき」に歌われているように、彼女の十代、彼女の青春は戦争によっておおわれ、奪われていた。

けれども彼女の悔しさは自分の青春が戦争に奪われていたことにあるのではない。
彼女が悔しかったのは、そのとき自分(たち)の青春が奪われていることを痛切に自覚することすらできなかった自分なのだ。
だから、50を過ぎても彼女は歌うのだ。
「自分の感受性くらい/ 自分で守れ」と.
だから、70を過ぎても歌うのだ。
「じぶんの耳目 / じぶんの二本足のみで立っていて / なにの不都合のことやある」と。
それぐらい、彼女は戦時中の自分がキライなのだ。
十代の自分が許せないのだ。

彼女にとって、十代の自分は、「頭はからっぽで」「心はかたくな」な、自分で「自分の感受性」を守れなかった者であったし、「手足ばかりが栗色に光」るだけの「じぶんの耳目 / じぶんの二本足」で立っていなかった自分だった。

だが、彼女はおばさんになった今の「自分の感受性」がどこから来ているかを問わない。
それが、あたかも生来のものであるかのようにその無垢を主張するだけだ。
ばあさんになった今の「じぶんの二本足」を支えるものが何であるかは問わない。
これを「よし」とし、あれを「あし」とする、その根拠を突き詰めようとはしない。

彼女は若かった頃の自分は否定するが、いまおばさんであり、ばあさんである自分は肯定する。
自分を叱ることができる者として肯定する。
けれども、彼女は、「自分の感受性ぐらい自分で守れ」と恫喝するおばさんや、自分の倚りかかるものは「椅子の背もたれだけ」だといばってみせるばあさんが、実は感性の柔軟さを失ってしまっている点で十代の頃の彼女と同じであり、しかも同じようにそのことに無自覚なままだということに気付いてはいないような気がする。

 


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