ノン・フィクション
その夢は来た。そして過ぎ去った。
だが、この夢なくしてなんの人生であろうか。
― フリッチョフ・ナンセン「フラム号漂流記」(加納一郎訳)―
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私がその一部のコピーを勝田氏と邑井氏に送ったのは、たまたま古本屋で並んでいるのを見かけた《筑摩書房 ノンフィクション全集》の中に収められていた「微生物の狩人」の中の一章でした。
それがあまりにおかしく、あまりにおもしろく、わたくし、まったく巻を置くあたわず、一気に読み終え、ついつい金沢の方にもコピーを送った次第ですが、実はその切手代は、本の値段より高くついたのでした!
なんとなれば、その本は一冊100円で売られておったからであります。
ところで、わたくし、若い頃より、役にも立たぬ詩歌・小説の類ばかり読んでおりまして、実は《ノンフィクション》などというものに、まったくといってよいほど興味なぞなかった。
しかし、これも何かの縁であろうと、そのうちの3冊ばかりを適当に買って帰ってきたのであります。
さて、この叢書、上下2段組み350ページほどある各巻にそれぞれに3編の作品が載っておりまして、そのどれもが、まったくもって、おもしろいのであります。
そこに書かれていた人びとは、むろんレーウェンフックや、コッホのように微生物を追いかける者たちだけではない。
地球の北極点をながれる海流があるはずだと、わざわざ氷に船を閉じ込めさせて何年も漂流する者がいるかと思えば、人に先んじて数学の極北に歩を進め、それが誰にも理解されぬうちにわずか二十歳で、あばずれ女のための決闘に倒れた者もいる。
あるいはアフリカのジャングルをかき分け、あるいは太平洋に筏(いかだ)で漕ぎだし、誰かは中央アジアの砂漠をさまよい、誰かはできたばかりの飛行機で大西洋を横断し、ある者はアルプスの処女峰に手を掛け、またある者はヒマラヤの未踏峰を攀じ登り、果ては、敵国を混乱させるべくその国の偽札を作る者がおるかと思えば、あるいはたった一隻の巡洋艦でインド洋を荒らしまわったあげくヨットに乗り換え見事故国に凱旋する者もいる・・・といったあんばいで、ともかくどれもこれもめちゃくちゃおもしろい。
というわけで、五日ほどかけて三冊を読み終え、こんなおもしろいものなら是非とも全巻読むべしと、ふたたび私鉄の駅ひとつ離れたその古本屋に勇んで出かけ、数日前帙に入った本がびっしりと並んでいた棚のところにいくと、・・・・・これが、ないんですな。
そこにはわずかに2冊残っておるだけなんです。
世に炯眼(けいがん)の士というものはおられるものですな。
ごっそり買われた方がおる。
私、久しぶりに後悔しました。
「あれ買っとけばよかった!」
まるで、パドックで目を付けていた馬がいながら万馬券を取り逃がした時みたいもんです。
というわけで、このブログにこの間《おたより》のオレンジ色ばかりが目立ち、黄色の《凱風通信》が一向顔を見せなかったのは、要は、わたくし、毎日、毎日、本の続きが読みたくて読みたくて、ものを書いてるヒマがおしかったせいでした。
それもまあ、残念ながら先週末でおしまい。
新たに買ってきた2巻も読み終えてしまいました。
あ~あ。
それにしても、これら15編の話の中で女性が主人公なのはわずかに一篇のみでした。
冒険、というか、探究、というか、要は目先の生活にはなんの利益もないことに血道をあげてよろこんであるのは、皆、男ばかりでした。
というわけで、この十日ばかりの間に私が心底思ったことと言えば、
「男はホンマにアホである!」
ということでございました。
昔から「命知らずの男」という言葉は存在しているのに「命知らずの女」という言葉がないのは、「命知らず」と「女」という言葉の間には、そもそも形容矛盾が存在するからなのでしょう。
むろんそれは女性をけなしているのではなく、まさしく「命知るもの」としての女がいたからこそ、「命知らずの男ども」を抱えながらも人類は今まで存在し続けてきたというものです。
それにしても、人類というのは、なんとまあ多くの愛すべき命知らずを抱えてきたことでしょう!
いやはや、人間というのは実におもしろいものでございます。
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