せつない
――ねえ、羊の絵をかいてよ。
・
いまでは顔さえよく思い出せない 四歳か五歳くらいの女の子
三十年あまり前に一度だけ出遭った 薄汚れた服の小さな娘
その子が また いまになって なぜ
夜ふけの部屋をたずねて来るのか
Nevermoreと啼くカラスのように
仕事机の向こうの暗がりにうずくまるのか
窓の外では闇の中に雨ばかり降るというのに
その子は遅い午後の空き地で ひとりきりで遊んでいた
あのころはこの街にもまだ空き地があり
私は幼かった息子を連れて 凧揚げをしようとそこへ出た
小さなヤッコ凧だが 糸を長くつけ 思いきり高く揚げてやろうと
息子を待たせて風を読み ゆっくりと糸目やしっぽを調整した
広い空き地の向こうで どこかの小さな女の子が
やはりしきりに凧を飛ばそうとして うまく行かない
そんな様子が目に入ったが それ以上気にはとめなかった
やっと息子の凧が舞い上がり 空に安定し始めたころ
その女の子がいつのまにかそばへ来ていた 見知らぬ子だが
どこかうつろな表情や ちぐはぐな服装は
もしかすると知慧が遅れているかと見えた
その子の凧の惨めだったこと 紙はそこここが破れ
布紐のような尾を垂らし
太い有り合わせの糸が粗雑に結びつけてある
いままでひとりで悪戦苦闘していたらしいその子が
おじちゃん と私に言った あたしの凧も直して と
こんな凧が飛ぶはずもなかったが そう決めつけては可哀想だし
息子の前でよその子に冷たくするのもはばかられた
息子には暫くひとりで糸をあやつらせておいて
私はその子の凧をいくらかでも調節しようとかがみこんだ
うん この凧はねえ ちょっと具合が悪そうだから
揚がらないかも知れないよ とつぶやきながら
けれどもその子は もう凧など揚がらなくてもよかったらしい
誰かが自分にひとしきり力を貸してくれる
それだけで十分に嬉しかったのだろう
私が彼女の糸目に取り組んでいるうちに
不意に身体をすりつけて来て 思いもかけない言葉を口走った
おじちゃん 好き と
その言葉は 彼女が日常どれほど見捨てられ 自分でも
そのことを知っているかを告げていて
私はほとんどうろたえた
かといって それ以上何がしてやれたろう
私は息子に声をかけた なあ もうじき暗くなるから
今日はそろそろ帰ろうか
それを聞くと 女の子も 飛ばない凧を地べたに引きずりながら
日暮れの空き地を 黙って別の方向へ遠ざかった
名前だけでも聞いておけばよかった
それほど遠くに住んでいたのでもなかろうから
その後の消息を 知ろうと思えば知れたろう
生きていれば 息子と同じに もう四十にも届いているか
それとも どこか 知らぬところへ連れ去られたか
だが その子はいまもあのときの姿のまま うつろな顔で
夜ふけの私をたずねて来て たどたどしく言うのだ
おじちゃん 好き と
― 安藤 元雄 「飛ばない凧」―
----------------------------------------------------------------------------