秘曲
それは音符のかわりに、あたかも黄色と黒の二つの色で作曲されたとしか思えない、そういう曲なのだ。
― 長田弘 『私の好きな孤独』―
上の一文を読んで、これがなんという楽曲のことを指しているか言い当てられた人は、相当の〈通〉ですね。
と、それはさておき、今朝、FMラジオをつけて新聞を読んでいたら、曲を紹介する女性が
ヘンデル作曲 「調子のよい鍛冶屋」
と言う言葉が耳にはいってきました。
私は、ハッとしました。
えっ、あの子狸が太鼓を叩く曲かい?
ここでいう「あの子狸」というのは、『セロ弾きのゴーシュ』のところにやってくる子狸のことです。
なんだかドキドキしてきます。
手にしていた新聞を置き、耳を澄ませました。
オーボエとファゴットとチェンバロ。
なかなかたのしげで軽快な曲です。
けど、太鼓みたいな打楽器はどこにもいないぞ?
聴きながらそう思います。
そうか!
よく考えてみたら、ゴーシュのところへ譜面を持ってやって来た仔狸がゴーシュのセロに合わせて叩くのは、たしか「愉快な馬車屋」という名の曲でした。
確かめてみました。
たしかに「愉快な馬車屋」です。
「調子のよい鍛冶屋」と「愉快な馬車屋」。
似ているけど、ちがいます。
あの三毛猫が、知ったかぶりにエラそうに言ってみせる
「トロメライ ロマチック・シューマン作曲」
って曲はたしかにあるみたいですが(トロイ・メライ)、「愉快な馬車屋」って曲は、やっぱりないんでしょうね。
実際三毛猫にゴーシュが弾いてやる「インドの虎狩」って曲だって、どこにもないんですもの。
そういえば、あの「インドの虎狩」に関して、すてきな文章があります。
ちょっと長くなるけど、全文写してみましょう。
(一文ごとの改行はわたしが勝手にしました)
まだ一度も聴いたことがない。
誰の曲かも、まったくわからない。
けれども、曲の名だけはひろく知られていて、聴いたことがないのに、その曲のことはよく知っている。
それがチェロ・ソナタであること、そしてチェロという楽器はもともととても静かな楽器なのに、チェロためのその曲はとんでもない曲で、むやみに激しい曲らしいということも知っている。
そのうえ、一度も聴いたことがないのに、ちがう、絶対に聴いたことがあると感じられるほど、その曲の印象はじつに色あざやかだ。
というのも、それは音符のかわりに、あたかも黄色と黒の二つの色で作曲されたとしか思えない、そういう曲なのだ。
その曲の譜にはきっと、こんな指示記号がつけられているにちがいない。
――黄色と黒の二色だけで、唖然とするほど元気よく、夢中になって演奏すること。
幻の曲だ。
けれども、その幻のチェロ・ソナタを練習したチェロ弾きの記録がのこっている。
その記録によって、その曲は後世に有名になったのだ。
そのチェロ弾きは、おそろしいほど下手なチェロ弾きで、人の耳を憚って、真夜中にこっそり練習するしかなかったチェロ弾きだ。
それでもあまりに下手なために、猫にまで馬鹿にされて、思わずカーッとなって、やみくもに、われにもあらず弾きまくるのが、その曲だ。
「猫はしばらく首をまげて聞いてゐましたがいきなりパチパチパチツと眼をしたかと思ふとぱつと扉の方へ飛びのきました。そしていきなりどんと扉にからだをぶつつけましたが扉はあきませんでした。猫はさあこれは一生一代の失敗をしたといふ風にあわてだして眼や額からぱちぱち火花を出しました。(・・・)
猫はくるしがつてはねあがつてまはつたり壁にからだをくつつけたりしましたが壁についたあとはしばらく青くひかるのでした。しまひは猫はまるで風車のやうにぐるぐるぐるぐるまはりました」。
たいへんな曲なのである。
べつに立派な曲ではなく、むしろ「あんな曲」と指さされる楽曲なのだが、いったん弾きだしたらもう、嵐のような勢いで、どんどん弾きつづけなければならず、真夜中の一時が過ぎ、二時が過ぎても、何時かもわからなく(ママ)まで轟々と弾きつづけてへとへとになってもまだ、弾きやめることができない。
そういうまるで信じられない曲なのだ。
黄色と黒の二色だけで作曲された、唖然とするほど元気のでるチェロ・ソナタ。
だが、それは実は、たった十日でみんなが本気になって耳かたむけるほど、チェロが上手に弾けるようになる秘曲でもあるのだ。
宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』に語られる謎の曲「印度の虎狩」がその幻の曲だ。
誰が作った曲なのか。
そのチェロ弾きがもっていたとされる譜は、どこにものこっていない。
長田弘さんの文章です。
いいなあ。
私も、自分の読んだすてきな本をこんなふうにじょうずに紹介できたらいいなあ、と思います。
いつかできるようになるかなあ。
ゴーシュのように死にものぐるいで練習すればどうにかなるかもしれませんね。
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