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追憶

 

 嘗て思つただらうか つひに これほどに忘れ果てると
 また思つただらうか それらの日日を これほどに懐かしむと

 

 ― 三好達治 「一枝の梅」―

 

 去年の二月の「通信」を読み返してみたら、去年も二月の始まりは梅の花のことだった。
 そして、去年も道元の「梅花」の詩を引用していた。
 わたしというのは、思った以上に、まったく、変わりばえのしない人間であるらしい。

 ところで、「正法眼蔵」の中の詩にはわざわざ訳まで載せてあった。
 どうやら自分で訳したらしいので、それが正しいという保証はどこにもないのだが、読んでみたらおもしろかったのでまた載せておこう。

 

  槎々(ささ)たり牙々(がが)たり老梅樹
  忽ち開花す一花両花
  三四五花無数花
  清
(せい)誇るべからず
  香
(こう)誇るべからず
  散じては春の容を
りて草木を吹く

 《枝が入りまじっているぞ、尖っているぞ、年とった梅の樹。
  でも、そいつは時節がくると一つ二つと花を開くのだ 。
  開いたと思えば、つづけて三つ、四つ、五つ、気がつけば無数の花だ。
  その清らかさを誇ろうなんて思ってはいない 。
  そのよい香りを威張ろうなんてことも思わない 。
   (この老樹は、ただ、咲きたくなって咲いたのだ)
  そして花が散るとき、
   「ほら、今度はおまえたちが花つける春だぜ」と
  梅は春風となって、ほかの草木をゆらしてやるのだ 》

 

                *

 節分の今日、ずいぶんあたたかかった。
 昼間は窓を開け放してあった。
 こんなにあたたかいとあちこちの梅も一気に咲いたろう。

 ところで当地、今日が公立高校の願書提出日だった。
 もうあと十日足らずで入試だ。
 昨日も一昨日も朝から塾に来ていた中学三年生たちは、今日も昼過ぎにはみんな集まって来て勉強をしていた。
 私は、本も読み飽きて椅子にすわって昔のノートなんかを広げたりしていたのだが、中に今日引用した三好達治の詩が載っていた。
 これはたった四行の詩なのにはじめの二行だけ書き写してあった。
 たぶん、当時の自分にこれを書き写させるに足る思いがあったのだろう。

 そう思って、三好達治の詩集を開き元の四行詩を読んでみたが、やはり今も、梅の出てくる後半の二行は書き写す気がなかった。
 わたしの変わりばえのしないこと、20年たってもやはり同じらしい。
 もっとも、今詩を読んで思い起こす「忘れ果て」ていたことが、この詩を書き写した当時と同じものかどうかは知らない。
 それでも、今、この詩を読んで思い起こすのが立原道造の

  なにもかも 忘れ果てようとおもひ
  忘れつくしたことさへ わすれてしまつたときには

  夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
  そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
  星くずにてらされた路を過ぎ去るであらう

                    (「のちのおもひに」)

などという詩の一節だったりするのは、たぶんは二十年前の昔もそうだったのだろうが、それはそれで、まあ、なかなかわるくはないものである。


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