梅花
槎々たり牙々たり老梅樹。
忽ち開花す一花両花、
三四五花 無数花。
清誇るべからず、
香誇るべからず。
散じては春の容を作りて草木を吹く
― 道元 『正法眼蔵』(「梅花」)―
先月末に家賃を支払いに行ったら大家さんの庭先の梅がもう咲いていた。
ところで、春だから梅が咲くのか、梅が咲くから春なのか。
…なんてことを普通の人は考えないが、道元は断固として
老梅樹の「忽開花」のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。
(老梅樹が忽ち開花するとき、花が開き世界が起こるのだ。そして花が開き世界が起こるとき、それがすなわち春がやって来たときなのだ)
と言う。
梅が咲いたから春が来たのだ、と言う。
なんだか、あたりまえのことだ。
そのあたりまえのことを、道元は力んで書いている。
それはとても大事なことなのだろうし、その意味を深く考えて書いてみたい気もするが、そんなものはたぶん誰も読みたくないだろうし、それにそれはわたしの手には余ることだろう。
だから、書かない。
ただ、道元の師である天童如浄の「老梅樹」の詩も、その詩に対する道元の解釈である
老梅樹の「忽開花」のとき、すなはち春到なり
という言葉も、ああ、いいなあ、と思うばかりだ。
なんとすがすがしいのだろう、と思うばかりだ。
よい二月になりますように。
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