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「サヨナラ、おれ」「サヨナラ、あたし」

  

 ああ
 きみに肉体があるとはふしぎだ

 

 ―清岡卓行 「石膏」 ―

 

 

 昔、「転校生」という大林宣彦の映画があった。
 階段から転がり落ちた中学生の男女の心と体が入れ替わってしまうお話である。
 なんともたのしい、なんともよい映画であった。

 さて、昨日読んだ中原清一郎の小説「カノン」もまた男女の意識と体が入れ替わる話である。
 こっちの方は、妻と30歳の娘を持つ57歳の男と、夫と4歳の息子を持つ32歳の女が入れ替わるのである。
 まあ、二人とも中学生ではないので、階段から一緒に転がり落ちただけで入れ替わるなんてわけにもいかない。
 そこで、こちらは脳の中で情動や記憶をつかさどるという海馬を互いに交換する手術で入れ替わるのである。
 なんで、そんな手術をしたかと言えば、男の方は末期のすい臓がんを患い、一方女の方はジンガメル症候群とかいう記憶がドンドン退化していく病にかかっているからである。
 女の方は自分の肉体を残し、幼い息子を育てたいと思い、男は自分の意識を残したいと思って手術をしてもらう・・・などという設定に文句を付けてもはじまらない。
 話の主筋は、女性(この女性の名前が歌音【カノン】という)の肉体の中に入り込んだ57歳の男の意識が、さまざまな出来事をとおしてどのように変容していくかというところにある。
 なるほど、途中から女の人になるちうのはむずかしいものだあとなかなかおもしろい。

 
 ところで、「自分」とは何か、「私」とはいったい何か、などとという話は、紀元前のヘレニズム時代アフガンの「ミリンダ王の問い」のような話になって、突き詰めていけば哲学的、あるいは宗教的なことになってしまうのだが、もちろん、ふだんのわたしたちは何の躊躇もなく今ある自分のことを「わたし」であると思って暮らしている。
 
 ときとしてわたしたちは、たとえば肉体と精神といった二分法によってあたかも自分を分けて語ることできるかのようにふるまうことがあっても、実際には「自分」というものの統合性を見失うことはない。
 要は、「わたし」という存在は実体ではなく、さまざまな事物や人との組み合わせ、あるいはその関係性の中で語られるものの呼称にすぎないのだが、わたしたちはそれでも「わたし」をある実体として意識することにふだんは何の違和感も持たずにいる。
 ところが、この小説の設定では、記憶や情動をつかさどる部分が元の肉体から切り離され、しかも年のちがう異性の肉体に移植されるのである。
 このとき「わたし」とは、その身体を指すのであろうか、それとも中にある意識を指すのであろうか。
 
 それが、この小説では問われることになる。
 32歳の女性の体の中に移された57歳の男の意識はその違和を強烈に意識する。

 さて、わたしたちは、あるものを中枢と呼びあるものを末端と呼ぶ。
 いうまでもなく、私たちの体で言えば脳が中枢であり、その他の感覚器官は末端である。
 そして、私たちはその中枢が末端を含め体全体を統御しているかに思っている。
 けれども、ほんとうにそうか。
 中枢は末端から伝えられる情報を受けてはじめて指令を出すものではなかったか。
 末端を持たぬ中枢は、語の本来の意味からして矛盾しているし、第一、末端からの情報が伝わらない中枢はもはや中枢とは呼べないだろう。
 だとすれば、「女」の体の中にあって、その感覚器から伝えられる情報をもとにさまざまなことを感じそして考える「男」の意識とは、ほんとうに元の「男」の意識なのだろうか、それとも、その肉体そのものを持つ「女」の意識なのだろうか。
 そのあたりの感覚が、読んでいてたいへんおもしろかった。

 とはいえ、ここまでおもしろく話を進めてきた中原清一郎氏は、けれども実は大事な一歩を踏み出さずにいたように思うのだ。
 その一歩とは、性、である。
 それというのも、元の32歳のうつくしい身体のまま戻ってきた新しい妻は、57歳の男としての意識をもつものとして、その夫との肉体的交渉を最後まで拒んだままにこの小説は終わるからである。
 ほんとかしら、と私は思う。
 もし、この「男」の意識が私のものであるならそうしないのに、というか、そうするのに、と思う。
 (それは、まあ、私が人並み以上に助平だ、いうことなのかもしれないが)

 はじめて女性と性的交渉を持ったとき、男というものが皆

 ああ
 きみに肉体があるとはふしぎだ

と清岡卓行のように胸につぶやくのかどうかは知らない。
 けれども、清岡のこの言葉は、性交渉があってはじめて、自分の愛した女もまた実は肉体というものを持っていたのだということを精神が身にしみて受容する男がいることを示しているだろう。
 心、というものが精神のみならず肉体を含めた「わたし」というものの統合体であるなら、なぜ作者は、あの「男」が女の性を味わうことを拒みつづけるという設定にしたのだろう。
 すくなくとも、昨日引用した

母にとって、父は意識じゃなくて肉体なんだわ。娘にとって、父は体じゃなくて意識なのにね。

という言葉が書けるなら、そこまで踏み込んで書いてもらいたかったなあ、と私は思ったりするのだ。

 今日の表題、
 「サヨナラ、おれ」
 「サヨナラ、あたし」
は映画「転校生」はそれぞれに元の肉体へと戻った男女の中学生が、引越しの荷物を積んだトラックで別れる最後の場面で、二人がそれぞれに言うセリフだが、大人になると、そうもさわやかには、かつての自分とは別れられないのかもしれないなあ。

 

 

 


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