失ったものの総量
得たものではなく
失ったものの総量が
人の人生とよばれるものの
たぶん全部なのではないだろうか
― 長田弘 「空色の街を歩く」―
今日の夕刊に長田弘さんの新しい詩集『奇跡 ― ミラクル ― 』からのこんな引用が載っていた。
ああ、そうだったのか、と思いながら読んだ。
そして、たしかにそうなのだ、と思った。
わたしたちの人生はわたしたちの失ったものたちからできている。
それらは、けっして取り戻せはしないものだ。
そして、だからこそ、それはわたしたちの人生なのだ。
得たものではなく、失くしたものを思うためには、静かな一人の時間が要る。
そして時を経てそれを思うとき、そこにあるのはけっして悔いではなく、むしろ、過ぎてきた一日一日がほんとうに一回しかなかったそんな毎日を積み重ねてきた自分の人生といういうものへのいとおしさだ。
そして、わたしたちは気づくのだ。
わたしたちが失ったものたちが、わたしたちをかたちづくり、わたしたちをわたしたちがいまあるこの場所に連れてきているのだということを。
もし、今わたしたちに得たものばかりで失ったものが何一つなかったとしたら、わたしたちは自分たちの人生そのものを失くしてしまっているのかもしれない。
たぶん失ったものを思うことはけっして後ろ向きのことではないのだ。
むしろ人々が称揚する「前向き」と呼ばれる姿勢こそが、実はほんとうに大事な何かからわたしたちの目を背けさせているのかもしれない。
などと、もちろんそんなことを塾の生徒たちに言おうとは思わないが。
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